No.12(1987.10.26)p 14-16
本の周辺2
朝河貫一『日本の禍期』の復刻
中村尚美(社研教授)
近ごろのわが国の対外意識は、せんだっての日中関係のきしみにみられるようにひどく驕慢な態度が目立って、国際的な平和と友好を念願する私たちの眼には不安で仕方がない。それは、経済発展によって世界最大の債権国へのし上った日本が、その経済大国化によって尊大となり、また軍事大国化によって優越感をもち、周辺諸国を見くだすものとなっているのだとしたら危険なことである。こうした優越意識、驕慢な態度でやがて日本を滅亡に導くものとなった歴史を、われわれは古くは日清・日露戦後に経験し、降っては1930〜40年代に身をもって体験してきたのではなかったか。いまこそ私たちは日本近代史に学んで、その尊大さ驕慢さをきびしく反省しなければならないときにきているのではなかろうか。
このときにあたって、日露戦争の勝利に酔いアジアへの侵略国に成りあがった日本をきびしく批判し、その国際的孤立化を警告した朝河貫一の『日本の禍機』が講談社学術文庫の一冊として復刻された意義は大きい。
ところで今日、日本で朝河貫一の名前を知るものはきわめて少数であろう。したがってまず、この国際的法制史家で米国エール大学名誉教授であった彼の略歴をのべておくのが順序であろう。
朝河は1873(明治6)年に福島県安達郡二本松に生れた。福島県立安積中学(現在の安積高校)、東京専門学校(早稲田大学)に学び、卒業後の1895(明治28)年渡米してダートマス、エール両大学に学び、比較法制史家として50年以上にわたってアメリカ史学界で活躍し、1948(昭和23)年にアメリカで死去した。その間に『六四五年の改革』(大化改新)の研究でPh・Dの学位を得、また大著『入来文書』『中世日本における土地と社会』(英文)を著し、国際的な法制史家として知られた。その生涯については、1983(昭和58)年に岩波書店から出版された阿部義雄『最後の日本人―朝河貫一の生涯』にくわしい。
さて朝河には、上記のような学者・研究者としてのほかにもう一つの側面があった。それが『日本の禍期』にみられるように、存外日本人として祖国の近代化を願い、その世界史的発展にたいして憂え批判する側面である。
朝河の74年の生涯は、日清・日露戦争、第一次世界大戦を経て、1931年からの満州事変、日中全面戦争・太平洋戦争へと進展する時期に重なっていた。中でも日露戦争と太平洋戦争の時期は、前者では帝国主義・軍国主義の日本が欧米列強と対立しながらアジア侵略への道へ突入しはじめたときであり、後者ではわが国がやがて国際的に孤立しながら、ついに米英をも巻きこむ大戦争へと突入して、破局への道を驀進していったときであった。この祖国日本の姿を、米国にあって冷静に観察しながら、世界史的な観点に立ってその行き方を批判し警告してやまなかったのが朝河であった。
彼は『日本の禍機』を執筆した動機を、教授と研究が私の本務であって時事を論ずるのは不得手であるが、この日本の危機的状況にあたって誰も発言しようとしないので、はからずもこの書を執筆するにいたったといっている。その内容については本書を読まれるのが早道だが、ここでその論調を簡単に紹介しておこう。
本文は、「日本に関する世情の変遷」と題する前篇と「日本国運の危機」と題する後篇から成るが、そこで彼が主張しようとしていることは、日露戦争の勝利によってにわかに驕慢なアジア侵略を開始した日本にたいして、それがいかに危険な方向であり道義に反したものであるかを指摘して、日本国民にきびしい反省をせまるものであった。
彼はこういっている。日露戦争は中国の主権擁護と列国の機会均等をスローガンにかかげ、米・英の支援を背景にロシアを戦って勝利したのであった。しかるに日本は戦後その大儀をかなぐりすて、ふたたび苛酷な侵略主義外交によって中国に日清条約を押しつけ、満鉄を動脈として「満州」を独占的に支配しようとしている。この状況を見た欧米人の中には、「日本が行く行くは必ず韓国を併せ、南満州を呑み、清帝国の運命を支配し、且つ手を伸べて印度を動かし、比律賓及び濠州を嚇かし、兼ねて遍く東洋を威服せんと志せるものや」といっている。この欧米人の観察はまた、朝河自身の日本の未来に対する展望でもあったろうと思われるが、その後の日本近代史を知ることのできる私たちは、その透徹した歴史的見通しの鋭さにただただ驚嘆するのみである。 |
渡米記念写真
明治28年10月
洋装姿が朝河。綱島 梁川・五十嵐力らが彼を囲む。 |
そして朝河はさらにつづけて、これは欧米人のみならずアジアの諸民族が危惧しているところでもあり、こうした世界の大勢を知らずに、「表に公明を装いて実は私曲を行い、支那における列国民の暗に相嫉妬するを以て好機措くべからずとなし、其間にひそかに私利の地歩を作りて他国の禍乱を窺い、一旦支那に内乱外患起るに乗じ、先づ走りて其の領地を分割し、利権を横奪せんとするが如き行為に出」るならば、「日本のために増すべき人類の幸福は却って減じ、進歩すべき文明は却って退歩し、支那は長く我を怨み、世は長く我を疑い、我亦徒に善良なる我が国民を悲ましめ、之をして我国運を疑はしめ、其愛国の情をして混濁ならしめ、内外の困難を倍加し、且つ天の与ふる大光栄を見ずして一時の栄華に衰え去らん。」という。
いうまでもなくこうした日本の侵略外交は、ポーツマス講和条約の精神に違反するばかりでなく世界史の大義にも反するものであり、とうてい許されない行為であった。こうした状態を朝河は、日本は今や平和による繁栄か、はたまた侵略による破滅かの岐路に立っているといい、ここでその態度をきびしく反省し世界の大義にのっとる外交に復さないならば、「外は長く清国と相憎み、世界に孤立し、内は常に国民の政治道徳を腐爛させ」、やがて大戦争によって国家破滅に至るであろうと警告した。
では、日本が平和で繁栄する道はいかなる方向であろうか。それについて朝河は最後に、つぎのような具体策を提言したのである。日本の外交は今後、東洋の最大問題たる清国にたいしてどう対応するか、また世界の最大富強国たる米国にどのような関係をもっていくかによって決まるであろう。しかもその日清関係、日米関係を作り出す主体は日本であり、「主として日本国民の清国と米国とに対する知識、感情の如何」にかかっている。それゆえ最後にして最重要の問題は日本国民一人ひとりの態度いかんにあるのである。その事を十分に認識し、真の愛国心を奮い立たせ世界の大義をふんで発展するならば、真の繁栄が実現されるであろう、と。
恐らく当時の日本は日露戦争の勝利に有頂天になり、世界の強国にのし上った自国を誇る風潮がみなぎっていたにちがいない。その日本に向って、これほどの批判と警告をよせること自体どれほど勇気のいることであったことか。しかし朝河は日本と日本国民を愛し、その道義的近代化を願うがゆえにあえてこれを執筆し日本で発刊しようとしたのである。しかもこの朝河の勇気をささえ、その熱意を実現してやろうという人がいたのである。それは早稲田大学の校友増田義一であった。この本が1909(明治42)年に増田によって実業之日本社から刊行されたことは、朝河の活躍をささえる早稲田人脈の広がりと温かさが、いかに大きいものであったかを示すものであろう。
なお、私たちはいま、朝河の残した厖大な書簡を委員会をつくって調査整理し、翻訳校訂して『朝河貫一書簡集』をつくる作業をすすめている。これは間もなく刊行される予定であるが、『日本の禍期』と併続して朝河の祖国に馳せた思いがいかに深かったかを知るとともに、今日の危機的な状況の中で、世界史的な広い視野に立って歴史を学び、現在を認識することのいかに大事なことであるかを学んでいただきたいと念じている。 |
エール大学構内の
「朝河貫一墓碑」 |
※明治42年版『日本の禍機』は本館に架蔵しております。請求番号は<カ1‐1562>です。
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