![]() 「捨吉」に三好さんを偲ぶ 池
田 正 二
(桜隊原爆忌の会 世話人・俳優) 昭和6年、前の年に中学を卒えたばかりの私が、築地のプロレタリア演劇研究所の研究生だったことから、左翼劇場公演・三好十郎作「恐山トンネル」に其他大勢の坑夫で舞台出演、以降三好さんの諸作を上演した“新築地劇団”、戦争末期に三好さんの「獅子」を持って巡演した“桜隊”、戦後は三好さんが連夜の稽古に立ち合った程の“戯曲座”と、長年の間には言うに言われないお世話にもなって、三好さんの全労作の凡そは折にふれ読んでいた。然し少年時代の事は人伝てに聞いていたに過ぎなかった。 20余年前初めて三好さんの手記「生涯からのノート」を読み、強い感銘を受けた。この少年期の苦渋に満ちた、 打ち砕かれた体験こそ、教養とはなんだと問いかけ、それは思いやりのことだと、あるいは人の痛みを思いやる心だと、余人には吐けぬ片言 ともなり、没後30年生き続けてやまない、全労作を生む母体ともなったと知った。そんな私だから少年期の資料は特に興味深かった。 その一つ、会場へ入ると最初が少年期のコーナーで、すぐ目についたのが、勝二・十郎兄弟の写真だった。二人共利発そうな、ふっくらした顔立ちで、父の顔 を知らずに育ったというにしては暗い影もなく、むしろ端然とした容姿は一寸意外だった。「手塩にかけて育ててくれた祖母が日頃、お前のお祖父さんも、そのお父さんも さむらいだったと言っては威張っていた。言われる私もえらくなったような気がし、喧嘩しても負けたことがなかった」と書き留めている。成程、少年武士の面影さえあると頷けた。
−君は父親や母親にあいたくなることはないかね? ケケケと猿のように捨吉が笑った 一度なあ、みつけてやるべえと思って 駅の所に立っていたら 男の人や女の人がいっぺえ通ってよ そん中に父ちゃんや母ちゃんがいるような気もするし いねえような気もするし おんなじようなこんだと思って さがすのはやめた ヒョイと気がつくと 俺の両頬がつめたい いつのまにか涙が流れている (中略) 気がついてみたら 俺は声をあげてクスクス笑い出していた(中略) 俺の中から死のうという気が まるでなくなっていた(中略) 私はドラマの台詞を書き取りながら、重い病床にあった三好さんがわが来し方を偲び、捨吉のお前があってこそ今日迄戦い続けて来れたよと、少年・十郎をいとおしむ声が聞こえて来るようだった。 図書館ホームページへ
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