No.15(1988.11.5)p 10-12
本の周辺 6
河童の沙悟浄
堀 誠(教育学部教授)
ことしの夏は、ちょっとした「西遊記」・孫悟空のブームだったようだ。8月4日付の「毎日新聞」夕刊によると、ハイビジョン・SFX映画に始まって、「西遊記」あるいは孫悟空の名を冠した劇がさまざまな趣で上演されたらしい。こうしたブームに便乗したわけではないが、かねて不思議に思っていたことがある。「西遊記」といえば、唐僧玄奘の西天取経の旅を材に取った中国の古典小説であり、そこにはお馴染みの孫悟空・猪八戒(悟能)・沙悟浄という弟子たちが登場する。その三弟子が何物かといえば、悟空がサル、八戒がブタ(イノシシ)であることは先刻ご承知であろう。そもそも悟空の姓はサルを意味する「?」字の獣偏を取り去ったもの、また八戒の姓も家猪にしろ野猪にしろ、その風体に因んでつけられたものだから、その姓自体が両者の真体を端的に物語っていたのである。では沙悟浄の場合はどうだろうか。往々「河童の」という修飾語を伴って呼称されるが、実は、これは日本でのこと。「西遊記」のテキストによれば、悟浄はきわめて醜悪な風体で、
項
に九つの髑髏を懸け、手には宝杖を持つという出立ちで出現する(図1)。その「沙」姓は住みかとした流沙河に因むというが、それもまた「孫」「猪」の如くに動物を秘めた姓字とも考えられる。近年その正体についてヨウスコウカワイルカだとか、ヨウスコウワニだとかの説も提出されたが、その当否はともかくとして、悟浄は久しく流沙河で人を食ってはいたものの、キュウリが大好物で、頭に皿を戴き尻を抜くといった手合いではない。それを異口同音に
「河童の」と称してきたのは、どうしたわけか。わが国における「西遊記」受容・流行史上の、些細ながら妙味ある問題であるように思われる。
図1 「沙僧」(『西遊真詮』図像) |
検証「西遊記」
かくいう筆者も幼年より河童と信じて成長した一人であるから、むやみに異議を唱えるつもりはない。むしろ寡黙な悟浄に愛着を覚えればこそ、多少なりともその淵源となりを探ってやりたい気持ちでいっぱいなのだ。
さっそく手元にある「西遊記」関係の書物に当ってみれば、陳舜臣『新西遊記』に「河童のこと」という章がある。この「沙河」の地名から説きおこした章に、悟浄は「河童の化け物」と呼ばれて登場するが、西遊記語りが一段落つくと、やにわに「沙悟浄を、気やすく河童、河童と呼んだが、これは慣例に従っただけである。そのじつ、沙悟浄は河童なんぞではない。」と強く否定し、次のように指摘する。
「そもそも河童は、日本の原産であって、中国にもインドにもいない。純日本産の妖怪なのだ。沙悟浄が河からとび出すので、日本における西遊記の翻案者たちは、勝手に彼を河童に仕立てた。」卓見であろう。期せずして強力な援軍を得たが、そうなると、ともかく仕立てられた「河童の沙悟浄」説の所在を文献的に辿ってみる必要がある。ついでに調べた手元の訳書類の中では、唯一、昭和30年4月刊の『孫悟空』(大日本雄弁会講談社「少年講談全集」13)が「川のそこからかっぱの化けもの」の章を立て、悟浄出現の場面を「腰に九つのどくろ(しゃれこうべ)をつけ、宝馬という槍をもち、頭をさらにのせたかっぱの化けもの。見るもおそろしい顔をして出て来た。」と描いていた。この手の書物によって、河童説に親しんだのであったろうか。 |
これを皮切りとして、より古い時代の「西遊記」「孫悟空」を名乗る書を調査してみたが、当然目睹し得るものは数に限りがあり、往時刊行されたものを網羅することは容易にできない。それでも早稲田大学図書館を振り出しに、国立国会図書館、三康図書館、現代マンガ図書館……と調べ歩くうちに、「河童の沙悟浄」説の実相が浮かびあがってきた。まず先の『孫悟空』の刊行された昭和30年前後のマンガに目を向けると、昭和28年1月刊の山根一二三作・画『新そんごくう』第二集(集英社「おもしろ文庫」)に、
「そ」「八」「さ」の文字をあしらった金太郎(腹掛け)姿の三弟子が闊歩する。もちろん悟浄は皿のある河童頭(図2)。また『おもしろブック』昭和31年1月〜32年3月号に連載された杉浦茂『少年西遊記」(ヘップ出版『杉浦茂ワンダーランド』 3所収)にも、皿のある河童姿で現れる。ただ『漫画王』昭和27年2月〜34年3月号に連載された手塚治虫『ぼくの孫悟空』(講談社『手塚治虫漫画大全集』所収)に河童姿は見えないが、新たに一行に加わった悟浄に向かって、「沙悟浄か、うわさに聞いたカッパかと思ったら、うすぎたない男だな」と八戒。悟浄は「リアリズムなんで…」と答えている。河童説を逆手に取った問答に、思わず快哉を叫んだものだ。 |
図2 「おまえはかっぱのさごじょうだ!」
(現代マンガ図書館蔵『新そんごくう』第二集) |
それぞれ愉快なマンガ西遊記が誕生しているが、それはそれとして先を急ぐと、閲読した関係書の中では、昭和7年3月刊の『孫悟空』(大日本雄弁会講談社「少年講談」5)が年代的に最も早いものとなった。これは先に示した
『孫悟空』のもと本のようで、「河童の化物沙悟浄」の章に、「腰に九つの髑髏をつけ、宝馬という槍を抱へ、頭に皿を乗せた河童の化物。恐ろしい顔をして出て来た。」とあり、次頁の挿絵はいかにも怖そうな河童姿に描かれる(図3)それからもう一冊、同年11月刊の宇野浩二『西遊記物語(前篇)』春陽堂
「少年文庫」36)の「はしがき」に、「孫悟空のほかに、猪の王の
猪悟浄
(
、河童の王の沙悟浄がお供をする」云々と記されている。悟能と悟浄がそれぞれ猪と河童の王様だったとは、ついぞ思いもよらなかった。因みに、この宇野のものは、『童話』誌上に連載した「西遊記」をまとめたもののようで、すでに大正15年4月に『西遊記物語』の題で春秋社から刊行され、翌昭和2年12月に『西遊記・水滸伝物語』として、「日本児童文学」36(アルス刊)に収められたが、そのいずれにも上記「はしがき」にいうような記載はなかった。その他、目睹し得た大正期の児童書類の本文や挿絵、さらに江戸・明治期に行われた『通俗西遊記』や『絵本西遊記』の和読はもとより、その図像にも河童らしい姿は認められないようだ。 |
図3 「頭に皿を乗せた河童の化物」
(三康図書館蔵『孫悟空』挿絵) |
河童ならねど
ここに「河童の沙悟浄」説自体の溯源はしばらく小休止せざるを得ないが、最後にいま一つ注目しておきたいのは、明治11年9月に初演された三世河竹新七の『通俗西遊記』(三場)である。その第一場「西梁女国王宮の場」において、登場した沙悟浄は、「
原
(
は天竺流沙河川童ならねど水底を、住家と定め九人迄人の命を取る年に…」と名乗るのであった。ここに自ら「川童ならねど」と口上にいったのは、悟浄が流沙河を住みかとし、水底からザンブと躍り出る妖怪であったことに起因しよう。それは一種の類比の表現であり、直截的に「河童の」といったわけではない。しかし懸案の「河童の」は、案外そうした河童めかした類比の物言いに源流するものでなかったか。類比の表現に転じて、にわか河童のえせ悟浄の誕生である。それに加えて、唐僧の一行には猿の孫悟空と玉竜なる白馬がいた。「猿は馬の性と相宜し」といわれるが、まさに猿・駒とくれば、河童駒引きが想起される。この民俗の視点に立てば、河童の和製悟浄の誕生は、あながちいわれなきものとは思われない。得体の知れない悟浄にとって、むしろ河童は打ってつけの適材であったといえまいか。相手が相手だけに、この屁理屈、どうか屁の河童と読み飛ばしていただきたい。
図書館ホームページへ
Copyright (C) Waseda University Library, 1996. All Rights Reserved.
Archived Web, 2002
|