山荘にいた頃から、私の友人は角田柳作先生の話をしていました。コロンビア大学に戻りました。どうしても先生の日本思想史のクラスに入るべきだと言いました。私は学部の学生でした。しかし、先生の授業は大学院の授業でした。そのくらい私は日本語を知りませんでした。「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」はわかりましたが、しかし実際上は何も読めませんでした。それで、最初の日、私は角田先生が教える教室に行ったら、先生はそこで待っていましたが、ほかに学生が1人も現れなかったです。私がだんだんわかったのは、登録したのは私だけだったのです。私は、先生が私1人のために準備をするのはもったいないと思いました。まずわからないだろうと思っていましたが、それは私1人のためのそんなことはできないと思って先生にそう申しましたら、先生は1人でも十分です、と言いました。その後2週間経ってから2人の日系人の学生が同じクラスに入りましたが、私1人だけのときでも教室に入ったら先生は黒板にいろいろ書いていました。その日問題になる思想家が書いたものの抜粋や、大事な言葉などを全部書いていました。私は全然読めませんでしたが、素直に手帳に全部書きました。いつかわかるだろうと思っていたのです。
それだけでなくて、先生は私のために、私が偶然に先生が答えられない質問をしたときのために、たくさんの本を持ってきていました。ことによってはそれを使って正確な返事ができるだろうと思っておられたと思います。ある意味本当に私にはもったいないということが言えます。私1人のためにすばらしい講義を聞くのは身分に余ることに違いないと。
あの秋の授業の内容は、徳川時代の批評家のことだけでした。私はあらかじめ何も読んでいませんでしたから、もちろん予備知識はありませんでした。しかし、角田先生は非常にわかりやすく私のために説明してくださいました。先生の講義は英語で行われました。英語の発音は必ずしも完璧ではありませんでした。LとRの区別はできませんでしたし、Thiとshiの区別もできませんでした。しかし、わかるには何も問題ありませんでした。また、語彙が非常に豊富で、いつも一番適切な言葉を使っていました。なんとなく、というようなことで一番適当な言葉を使って私に伝えてくださいました。先生の声はあまり大きくありませんでしたが、大事なことになると相当情熱に溢れていました。微笑することはよくありましたが、笑うことはあまりありませんでした。
先生の講義を聞きながら、自分のそのときまでの教育は、大変偏っていたということが初めてわかりました。私は大学の学部の学生として古代ギリシャの人物の名前をよく知っていましたし、作品を翻訳で読んだこともあるし、後でギリシャ語を覚えてからは原文で読んだこともあります。そして、私はヨーロッパの主な作品、文学や哲学も、表面的だけでしょうが、大体知っていました。しかし、私は東洋について何も知識はありませんでした。恐らくそのときまでの授業に日本は一度も登場しなかったと思います。それは当時のアメリカとしてごく普通だったと思います。