第1部 第3章
黎明期の新聞


官板バタヒヤ新聞

官板海外新聞

 わが国の近代的新聞の始めは、文久二年(1862)一月に、洋書調所において、ジャワから来たオランダ語の新聞を翻訳し、木活字によって印刷した『バタヒヤ新聞』であった。黒船来航以来、海外情報の収集の必要に迫られた幕府の手によって、こうした翻訳新聞が何種か出されたが、それを読むことのできた人は限られていた。一方民間でも、ヒコの『海外新聞』を皮切りに、新聞の発行が始まり、短時日のうちに非常な隆盛をみた。


太政官日誌

江城日誌

官板六合叢談

海外新聞

万国新聞紙

横浜新報もしほ草


江湖新聞



中外新聞



遠近新聞



日日新聞



公私雑報



内外新聞
    幕末・明治の新聞

 日本に初めて新聞があらわれたのは幕末のことである。もっとも瓦版等の新聞類似物はそれ以前にも存在している。本邦において最初に編輯されたものという意味においては、翻訳記事ではあるが『バタヒヤ新聞』が最初の新聞である。翻訳でなく日本人の手で創作された新聞は、明治元年に明治新政府の官報として発刊された、京都における『太政官日誌』と江戸における柳川春三などによる『中外新聞』とであった。期せずして東西で同時に新聞が発行されたことは、いうまでもなく、恭順か佐幕かという当時の国論分裂の様相を反映したものだといえる。国内に政治的対立がある場合、世論を自派へ誘導するひとつの武器として新聞紙の機能が重視されたのは当然であった。党派的感情があればこそ、ニュースに対する欲望がわくので、よくいわれる「新聞は読者が作る」という不変の事実も、この時から現れているのである。
 明治元年、明治新政府が成立するや、佐幕、尊皇の言論戦も新政府が厳重な取締令を発したので、佐幕派新聞は続々と廃刊を余儀なくされた。新政府の倒幕事業は一応完成したが、東京と名の改まった市内は、社会不安がつのり、物情騒然たるものがあった。さきに厳しい新聞取締令を出した新政府も、単に治安維持のみでなく、基礎的政治様式確立の手段としても、新聞の必要なることを痛感し、明治二年「新聞紙印行条例」を公布して、はじめて正式に新聞の発行を認めた。これは実に日本における最初の新聞紙法ともいうべきものである。かくして幾多の新聞が復活、創刊された。内容は廃藩置県、議院制度の提唱、開化思想の宣伝に力をそそぐなど一段の進歩を見たが、政府の内容についての干渉は厳しく、さらに「新聞紙条例」、「讒謗律(ざんぼうりつ)」が公布され、新聞の取締りは強化された。このような社会状況の中で民衆や婦女子は政治的、経済的問題よりも、日常市井におこった身辺の出来事により多く興味を持ち、次第に娯楽の要求が盛んになってくる。いわゆる「小新聞」はこのような時代的背景のもとに発生したのである。これらの新聞の多くは、西南戦争の報道記事によって読者の範囲を拡張した。新聞が書籍視された傾向は、次第に薄らいで報道機関として必要と認められるに至った。
 明治二三年を期して国会を開くとの詔勅が公布されると、各政党は互いに新聞を利用して政論を戦わせた。新聞はいつでも政治、政策を明示する重要な手段であるが、この時は大新聞、小新聞の別なく政党機関紙となって政治運動に重要な役割を演じた。自由民権運動が単に国会開設を願望するに止まらず、革命的社会運動へ転化するにおよび、政府は新聞をますます重視し、その弾圧懐柔に再び積極的に乗り出すに至った。その結果政党の沈滞、在来の政党機関紙はまったく衰微したので、各紙とも政党色を払拭し、経営方針を改革して事業化をはかるに至り、かくて新聞のあり方にも画期的変革をもたらした。戦況を知ろうとする読者層の飛躍的激増、この読者を維持しようとする経営方針は、必然的に紙面に反映した。大新聞は通俗化し、小新聞との区別はほとんど消失して、いずれも営業本位となった。言論第一主義は、ここにまったく否定されて報道本位または娯楽本位となった。資本主義化の傾向は、激烈な自由競争によって、明治、大正、昭和と時代の推移とともに一層拍車がかかることになる。

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