*ここに展示されている資料は、2002年5月に開催された、展覧会「文人たちの手紙――にじみ出る素顔――」に出陳されたものです。

[その1]


 
1.井原西鶴書簡
 
 うちや孫四宛 [元禄五年(一六九二)]三月四日 1軸  ヌ6 8491
[解説]
江戸前期の俳人・浮世草子作者、井原西鶴(1642- 1693)の書簡。今日までに確認されている西鶴の書簡、わずか6通のうちの1通。宛名の「うちや孫四」は、内屋または宇治屋、孫四郎の略と思われるが、詳細は不明。書中には、貞享元年(1684)6月5日、住吉神社において一人で2万3千5百句を詠んだ矢数俳諧興行のこと、目の病いのことなどが書かれ、西鶴が没する前年のものと推定されている。
 
[原文 ]
御無事珍重ニ奉存候、殊更/俳諧御執行各別ニ御作意/あらハれ申候、菟角ハ句からに/さのミ力を入す、心の付方ニ/可被遊候、江戸も爰元も只/さらさらと何の事もなく付出し/申候、近内板行出来申候、其元ニ/遣し可申候、神そ神そ此俳諧/程ニ被遊候事、大かたニ而成へき/御事ニあらす候、いよいよ御情入/可被遊候、春夏ニ備前へ罷越候、/其時分其元へも罷立寄/可申承候、惣して俳諧ニ今程/心をなやませ、一座ニ而いつれの/作者もならす候、皆々 出合ニ/人の前句ニ而付出し申候を、此道の/第一也、私も一日ニ二万三千五百/句ハ仕申候得共、是ハ独吟/なれは也、/今程目をいたミ筆も/覚不申候、跡より俳諧の外/存寄大事覚申候所を/書付遣し可申上候、以上、/三月四日/  西鶴(花押)/うちや孫四様
此句の脇第三/あそはし可被遣候、/我発句也、/落花/桜影かなし/世の風美女か/幽霊か/西鶴
 


 
2.各務支考書簡
 
 長野鷺洲宛 1軸  ヌ6 9279
[解説]
芭蕉門下の俳人、各務支考 (かがみしこう、1665-1731)が越後の俳壇の中心人物である長野鷺洲(1691-1763)にあてた書簡。同じ越後の俳人、井上鴎笑がまとめ、鷺洲が序を寄せた俳諧選集『賀茂の矢立』について支考が意見を述べている。
 
[原文 ]
鴨の矢立/縁起ノ序/世に伝ふ延喜式の青海ノ神社/とは蝉の小川の流にそひて/和光の月の清けれハ、菊ノ太夫か/入道して影もはつかしと/詠しけむ、それは都の賀茂の/やしろとそ、しかるに瀬見を/蝉によそほひ鴨を賀茂/とも書伝しハいつしか/大和の風雅なるへし、さて/我国の賀茂といふ所は、/いにしへ賀茂ノ次郎殿の/黒鳥の<ノ>兵衛といひし逆臣/を討ほろほし此ミやしろ/に凱哥をとなへ給ひしより/其後の里人は賀茂ノ明神/とよひ奉りけるよし、其殿は/此神の申子なれハ一躰分身/の光をうつしていつれをか/疑ひ奉らん、さるを其里の/鴎笑子は此社の旧記を/たつね、騒人雅士の口占を/あつめて矢立の筆のいとま/なけれは、其名を鴨の矢立と/題せしか、神書に丹塗(にぬり)ノ矢/の縁語なるにや、ことし/享保何の何時これこれの諺/を拾ひあつめて是を序する/者は長鷺洲なり
黒鳥/此二字名字ならハ黒鳥ノ兵衛/と書へし、所ノ名ならハ黒鳥/の兵衛と書へし、和漢に/助語の用にして文章の/書法也/
丹塗 古史ニ鴨ノ羽ノ箭流レ来ル故ニ鴨河ト云ヘリトソ
公事根源ニ或時于瀬見(せみ)ノ小河ノ辺逍遙ス 丹塗ノ矢有テ河上自リ流下ル、玉依姫矢ヲ採テ身ムコト有リト云々
此外ハ文章御出来にて候/第一に一段の起結と第一ニ/句読の長短よくよく/御工夫可有候、虚実の事/ハ今更論に及ましく候/ 蓮二(花押)/ 鷺洲丈
 



 
3.上田秋成書簡
 
 法全尊者宛 文化二年(一八〇五)八月二十三日 1巻  ヌ6 9204(2) 
[解説]
『雨月物語』の作者上田秋成(1734-1809)の晩年の手紙。妻に先立たれ、右眼を病んで、孤独と寂寥のうちに沈む秋成の心境が窺える。文中の西福寺とは京都南禅寺域にある寺で、この手紙をかいて四年後に他界した秋成の墓所がある。
 
[原文 ]
(追而書)
「院主御上京ニハ罪ヲ謝スヘシ、尊者宜ク御取ナシ/タノミ入候、即西福寺主近日推参イタサルヘク/申サレ候、附与ノコトクレクレ願申上候、/若東山辺御往来候ハヽ南禅ヘ御立ヨリ申乞候/不具」
凉雨漸秋景尊者益御壮安歟、拙老ハ/例ノ如ク夏ヲ堪カね岡嵜ノ昇道方ニ/五十余日投宿ノ中邪気軽症又咳嗽ニ/転シ、終ニ痰喘トナリテ食味ヲ失ヒ/大ニ気力ヲ脱シ、且客舎ニモ倦テ南禅山回/檀院西福寺ヘ転居、今ニ病床ナカラ起/居ハ心ニマカス也、七十二齢ノ老病心ハ/乱レス、今年中ニハ閉目アランカト甚喜/ハシク、旱天ニ雨ヲ祈リテ死期ヲ俟ノミ/○尾州ノ少年行ヘ回書漸揮毫ス、/板下ノ清書代筆ニテ下ス也、毎々ノ/コトナカラ伝達ヲ乞奉ル也/○前日申入候老カ肖像、先達テ御預/申オキ候ヲ西福寺主 是非ニ当寺ニ/納ヘク申サル丶也、院主御留主ニハイカ丶/ナルコトナカラ、必竟無論ノ長物ニ候ヘハ、/何トソ西福寺ヘ遣ハサレタク願奉ル也/  八月廿三日  余斎/法全尊者
 


 
4.小林一茶書簡
 
 おきく宛 文政五年(一八二二)二月九日 1通  チ6 3890(249)
[解説]
江戸で俳人として成功した一茶(1763-1827)が、信州へ戻り52歳の時に迎えた妻、きく(28才)にあてた書簡。庭の椿の木に霜よけをかけろとか、家を留守にするなとか、細々したことをしたためており、若い妻に対する厳しさ、やさしさがにじみでている。
 
[原文 ]
御安清被成候哉 されは/是より田中江参りて/卅日迄ニハ道もかたまり/可申候間 帰り申度候/一、庭の椿雪消候へは/いたミ申候間 わらなりとも/菰なりともかふセて/霜よけ頼ミ入候、/一、朝から門ニ錠を/かけて置く事、/よろしからす すべて/留主に致さぬやうに/心かけ頼入候/一、冨右ヱ門とのはゞ様 いまだ雇ひ不申候哉/是又早々やとひおき/可申候/右申入度 かしく/二月/九日/一茶/おきくとの
 


 
5.滝沢馬琴書簡
 
 殿村篠斎宛 天保五年(一八三四)二月十八日 1巻  ヌ6 7174 
[解説]
滝沢馬琴(1767-1848)が交流のあった国学者殿村篠斎(安守,1779-1847)にあてた長文の書簡。この時馬琴は68歳、老境に達し右目が見えなくなってきている。この後、不自由な中『南総里見八犬伝』等の執筆を続けるが、ついに両眼を失明、長男の嫁、路の手を借りて完成に至る経緯は有名。日付は正月となっているが、2月の誤記。
 
[原文 ]
(前略)
一、 野生去年中よりつめて著述ニ取かゝり/候へハ、右の眼俄ニいたミ候事有之、/筆の運ひ見えわかぬ事折々有之、/又その翌日ハ左もなく候間、さのミ心を/とめ不申候処、当月ニ至り右眼一向ニ/見えす、只左眼にて用事を弁し候、/左を閉候へハ少しも見えす、うち見ハ/両眼とも平生ニ不替候様ニ候へとも/偏枯いたし候哉、四五十年昼夜/眼力を尽し候故老樹の片枝枯候/様ニ成候歟、何分一眼ニてハ心細く覚候、/一両日前より忰療治ニてあらひ薬/眼薬等いたし候へとも、同様に御座候、眼科の/巧者ナルニ療治うけ可然よし、忰/申候得とも、とてもかくても古家の造作ニて/そのかひありかたく候ハんと存候故打捨、/眼科ニもかゝらす候、当分眼を休せ候様/忰いさめ候へとも、筆硯と読書を/廃し候ては、一日もくらされす活/かひもなく候間、尚如此長文を二通/桂窓子分とも二日二夜かゝり候て/認候、かく認候内もおほろけにて筆の/運ひ見えわかす成候事度々御座候、/もし著述なと出来かね候様に/成候へハ大不経済ニ御座候、弱冠より/一たひも眼疾を患ひ候事無之候ひしに、/見ること久しけれハ曇るといふ古人の/金言今さら思ひ合し候、御賢察/可被成下候、頓首/正月(ママ)十八日再白 著作堂/篠斎大翁
 


  
 
6.坪内逍遙書簡
 
 長原止水宛 明治十八年(一八八五)八月七日 1巻  文庫14 C1
[解説]
坪内逍遥(1859-1935)が、当時新進の青年洋画家であった長原止水(1864-1930)に宛てた書簡。評判になった逍遥の小説『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』の挿絵にどの場面を描くかという止水の問合せに逍遥が答えたもの。物語の主人公である二人の書生(学生)が偶然池ノ端で出会う場面を、せりふもつけて指定している。少年時代から絵を学んだ逍遥は、みずから描いた下絵をこの手紙に添えて送っている。
 
[原文 ]
華墨拝読仕候。扨は/昨日ハ何の風情もこれなきに/長々しう御抑留いたし、申訳なう奉存候。/御依頼申上置候挿絵の義に付、/御問合の趣正に拝承。/すなはち左ニ御答申上候。/件の二人の書生ハ、久々/相離れ居候處、遇然/池の端仲町ニて行逢ひたる体也。/其言葉がきハ「ヤ君は/倉瀬君でハないか。「これハ野々口君か。/まことに御久振ですネエ云々也。/宜しく御工夫有ル様に。
○稗史年表云々拝承。/右書ハ兼々其名を聞伝へ/居候故、在学以来、数々/知人に嘱託して一見せまほしく/存候ひしが、いまだ今日まで/右書所有の人ニであはず、/頗る隔靴の憾ありしに、/図らざりき、尊君の御紹介/にて此long sought love/に相逢はんとハ。あはれ希くハ/お序の節ニ一見おゆるし/願はしうこそ。/万縷拝眉の期ニゆづり、/頓首。
七日夜/朧拝/長原盟臺
  序ニ白す。彫刻の都合/有之候間the illus.ハ可成/薄葉に御したゝめ/被下度候。且ハ人物の名前/を挿むがために、  ノ如き/ものをも御かきそへ被下度候。
    (封筒表)神田区淡路町二丁目九番地 長原孝太郎様 拝復
    (封筒裏)本郷真砂町十八ばん 坪内雄蔵
 


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