*ここに展示されている資料は、2002年5月に開催された、展覧会「文人たちの手紙――にじみ出る素顔――」に出陳されたものです。

[その3]

 
  
 
 
 
 
 
 
 
13 正岡子規書簡
 
河東碧梧桐宛 明治25年(1892)1月21日 1巻  文庫14 C16
[解説]
 早稲田大学の学生でにぎわう高田馬場は、江戸時代、幕府が乗馬の訓練場として設けた施設(馬場)のあったところで、中山(堀部)安兵衛の仇討でも有名である。ここに明治25年頃、俳人正岡子規(1867-1902)の従弟にあたる藤野古白(こはく、1871-95)が下宿し東京専門学校に通っていた。この手紙で子規は河東碧梧桐(1873- 1937)にあてて、古白を訪ね句をよんだことを書いている。しかし古白はその3年後、人生を思いつめ、ピストル自殺をとげている。
 
[原文 ]
御手紙拝見致候。/益御健固奉賀候。/高浜子臥褥の/由、格別の事にてハ/無之と存候得共/気遣敷候。
拙著ニ付て度々/過分ナル形容詞ヲ/戴き誠に恥入申候。/併シ手助けといふ/御詞にて思ひ出し候。/若シ貴兄御上京/中にて学課も余り/無之者ナラバ、家も広/き故、同居を願ふて/御助力ヲ願上候ハヽ、/仕事もはか取、如何/計りか愉快に/存可申と存候得共、/当地学友、小説/抔ニ助力致呉候/者無之遺憾ニ/存候。拙著略/落成シタレトモ、未タ/荒壁にて上塗/最中に御座候。前/便も申上候通、出板の/事ハ甚無覚束/存候。
虚子五色ノ筆ヲ/煉て天柱地維ヲ/補ハント致候由、誠に/刮目シテ可待候。併し/筆トハ何ノ筆カ。詩か/小説か。
新葉末集、伽羅/枕、春の舎漫筆、/御閲覧の由、小生も/右ハ一読致候。葉末/集御評小生も同説也。/春廼舎漫筆を見て/同氏の修辞に拙ナルニ/今更驚き申候。余ハ/同氏を泰斗と思ひ/居りしに。
井筒女之助ト云フ小説/読ミかけ候(七八回丈)/初ヨリ愚(バカ)ニセシ処其手/並に驚き候(尤三日月ハ/読ミシ事ナシ)中ゝ紅葉/抔ノ及ぶ所に非ズ。/それも初めの四五回ニテ/其後ハ大変ニ筆力/衰ヘタル様ナリ。尤/未読ノ分ハ不知。
藤野叔ニ托セシ蕪翰、/大方御落掌ト存候/故其後ノ景況ハ相分り/申せし事と存候。
早梅の御句大ニ面白き様也。/一日ハトアル意味解セザル/故不評。後便ニ御報奉願候。
我庵ハの御句、近頃/斬新の御手並驚/入申候。余ハ古白の胸/中より出しものかと思候も/をかし。小生同庵を訪ふて
 日あたりや馬場の跡なる水仙花
とこじつけて十二句の/連俳興行せしのミ。今/貴句を見て慚愧々々。/(同所は有名ナル高田ノ馬/場ノ古跡ナリ)
近作
 聞きやるや闇におし行く雁の声
 あら笑止やまた白魚を買ひはづす
 冬籠命うちこむ火燵哉
 雪の日や白帆きたなき淡路嶋
 此日哉(明石から)雪にくれ行淡路嶋
最後の句下二句ヲ得て、/初五文字未だ満足ニ/不出来、大兄何とか御/助力奉願候。尤、宜しき/句にハ無之候へども五/文字ノ置様にて或ハ/名句とならんも難/斗ト存候。呵々。小生其/候補者トセシ句ハ
「はつきりと」「静さや」/「見事也」「櫓の音や」/「船呼や」「並松や」/等に御座候。選挙スヘキ/程ノ者も見え不申候。己上。
一月廿日/規拝/秉兄悟下
  前便も申上候通り、/小生当月ハ無一文ニテ/相暮可申考居候所、/昨夜小説ノ書キ直シ/スル際に、只一本ノ/唐筆全ク禿シ/尽シテ如何トモスルナシ。/而して懐中余ス所一銭/六厘也。其レ故今日不/得巳、南塘先生方へ/行きて廿五日迄ノ処/少々ト相願候処、早速/御承引、幾何程やとの/御尋に一円と申候処、/先生大笑シテ曰ク、/英雄モ水ニ及ザレバ亦/一挙手一投足ノ労ヲ/要スルカト、余モ亦タ大/笑ス。而シテ実ハ/一円ノ内半分ハ人ノ/為ニ借リテヤリタル也。/英雄末路如斯。/呵々。
冬籠小ぜにを/かりて笑ハるゝ
 

 
 
14 北村透谷書簡
 
父快蔵宛 断簡 1軸  文庫14 A92
[解説]
北村透谷(1868-1894)が17、8歳のころ、父にあてて書いた手紙。自由民権運動に加わり、社会変革を志していた透谷が政治的挫折を感じ、文学へと転向してゆく経緯をものがたる資料である。透谷未亡人の北村ミナから本間久雄に譲られたもの。
[原文 ]
 哀願書
豚児門太郎謹ンデ一篇ノ哀願書ヲ以テ大人ノ坐/下ニ捧グ。児、曽テ経国ノ志ヲ抱イテヨリ、日夜/寝食ヲ安フセズ、単ヘニ三千五百万ノ同胞及ビ/連聯皇統ノ安危ヲ以テ一身ノ任トナシ、且ツヤ/又タ世界ノ大道ヲ看破スルニ、弱肉強食ノ状/ヲ憂ヒテ、此弊根ヲ掃除スルヲ以テ男児ノ/事業ト定メタリキ。然ルニ世運遂ニ傾頽シ、/惜ヒ乎、人心未ダ以テ吾生ノ志業ヲ成スニ当/ラザルヲ感スル矣。鳴呼本邦ノ中央盲目ノ/輩ニ向ツテ、咄々又タ何ヲカ説カンヤ。児ノ胸中/濁リ自ラ企ツル所、指ヲ屈スルニ暇アラズ。是レ/ヲ施シ、是レヲ就サントスルニ世運遂ニ奈何ト/モスルナキヲ知ル。嗚吁奈何ナル豪傑丈夫ノ士/ト雖、何ゾ能ク世運ノ二字ニ
 

 
 
15 幸徳秋水書簡 
姉宛 22日 1軸  文庫14 C81
[解説]
『帝国主義神髄』等の著作で知られる社会主義者、幸徳秋水(1871-1911)から、妻の姉、松本須賀子への手紙。秋水の妻千代子が夫の活動に不安を覚え、別居状態となっていた1908年末から1909年はじめ頃のものと考えられる。1909年正月、千代子は久しぶりに高知県中村町から東京の夫の元へ戻ることになるが、途中、名古屋に住む姉のもとに立ち寄っている。こののち1909年3月、2人は協議離婚し、その2年後、大逆事件により秋水は処刑される。
 
[原文 ]
御手紙拝見致しました/千代の容態は左程御心配なさる/程ではありませんが兎に角御/言葉に従ひ五六日中に御地に遣/すことに致しますから宜敷/御世話を願ひ上ます/猶先日来の御話に付ては手紙/では何分意思が疎通し兼ね/ますから千代到着の節同人/より詳細親しく御聞取を願/ひます/千代出立の後は小生も一両月旅行/保養の上、又雑誌なり出して/飯食ふ方法と例の運動に取掛り/たいと存じます/乍末御兄上様へ宜敷御伝声を祈る/廿二日 秋水/ 御姉上様
 

 
  
 
16 島村抱月書簡
水谷不倒宛 明治38年(1905)11月22日 1巻  文庫14 C33
[解説]
日本近代文学史上にのこる雑誌、第二次「早稲田文学」は明治39年1月より発刊され、自然主義文学の中心的存在となる。その編集主幹であったのがヨーロッパ留学から帰朝したばかりの島村抱月(1871-1918)であった。これは創刊の前年、抱月が水谷不倒にあてて創刊号の内容につきあれこれ書き送ったもの。
 
[原文 ]
拝復仰裁。黙庵氏のもの/至極おもしろからんとは存候へ共、/一号にはとても載るまじと存候。/一号本欄は小生の四五十頁の外、/田中正平氏十頁幸堂氏/篁村氏を一束して十頁内外/と見、逍遙氏のを十頁、/梁川氏を五頁、春雨氏/十頁、蘆花氏二三頁、/岡田朝太郎氏十頁位と/いたさば最早それだけにても/一杯の体に有之、それに大兄/のを二段ものなり通しものなり/に加へ候はヾ、外の二段ものも/短きものゝみにて済まし申すべく/到底余地あるまじと存候。/二三号以下と御願申度/如何にや。又幽芳氏其他へ/の御配意多謝。同氏発/起人の件、今回またまた/模様更へと相成、結局、/会頭大隈伯、幹事小生、大兄、/伊原、東儀、金子の五人、発起人/は哲学会と雅劇連と雑誌/社とに、岡田、坪井、鳩山、高田、三宅/などの顔触を加へたるだけのものと/相成申候。就ては菊地氏を発/起人に加へ候事万一他の幹事に/異議有之候てはとの懸念も有之/候に付、急に他と打合せ申すべく、/それまでは貴兄一人にて御含の上/其のまゝになし置被下度、小生は/這入つて貰ふ方一好都合と/存居候。何れ会則やうのもの/文章近々謄写版にして/御送り可申候。先は/右要事而巳。不一。
十一月廿二日/嶋村 生/水谷大兄 几下
    (封筒表)大阪西区靱上通一の二十四 水谷弓彦様 親展
    (封筒裏)東京牛込原町三の七十四 島村滝太郎
 

 
 
17 島崎藤村書簡
 
小山内薫宛 明治37年(1904)6月9日 1軸  文庫14 C147
[解説]
島崎藤村(1872-1943)が、年少の友人小山内薫にあてて書いた手紙。近況報告であるが興味深い内容である。たとえば文中の「ウイズアウト・ドグマ」とはポーランドの作家シエーンキェウィッチの作品でかつて藤村が小山内にすすめたもの。また「日課のやうにして」とりかかっている小説とは、発表後一大センセーションをまきおこすことになる『破戒』のことである。
 
[原文 ]
新茶の香を味ふころと相成り候。/いつも青葉のころは仕事も手/につかず、眺めかちなる此頃、かず々々/のうれしき御便り。都の諸兄/にも接する心地して拝見致候。/有島兄にも御逢の由、小生は/心ならずも御無沙汰致居候。先頃、/丸山さんも東京よりかへられ、小生/宅へ一泊、いろ々々太平洋画/会の話も出て、君の御宅へも/うかゝふつもりにて、雨中を巣鴨/まて行き、所々たつねたるに、かん/じんの番地を失念し、空しく/引かへしたる由申居られ候。試験/も近つき候旨、御油断あるべか/らず。一等戦闘艦すら思はぬ/機械水雷にかゝる時節柄に/御座候。あまり嬉しづくめの御手/紙も、反つて心配して読むで見/るが人情なれど、既ニ「ウイズア/ウト、ドグマ」を引いてあれ迄の/仰せ、先々安心致居候。御申遣/のイブセンは所持いたし居候。/日本人種新論とやらは/是非一読致度候。参考として/御貸し下さる御厚志辱し。/御序の節拝見を御許し/被下度、いろ々々拝借せし書物/も御座候間、一緒にて御返し/可申上候。いつそやの快楽派倫理/も太た面白く拝読致候。小生も/この節は日課のやうにして小説/にとりかゝり、すこしづゝ前へ進み居/候。隼町に御逢の折ハ、何卒/よろしく御伝声被下度、先ハ/御返事のミ。草々。
五月二十九日/春樹/薫詞兄 硯北
    (封筒表)東京小石川区巣鴨宮下町五番地 小山内薫様
    (封筒裏)信州北佐久郡小諸 島崎春樹

 

 
 
18 樋口一葉書簡
 
伊東夏子宛 明治22年(1889)初秋 1軸  文庫14 C97
[解説]
女流歌人・小説家樋口一葉(1872-1896)が中島歌子の歌塾「萩の舎」で同門だった伊東夏子にあてた手紙。一葉18歳のころである。宿題の作品を先生にけなされたのか、「私のへぼかすよみ」などという自嘲の言葉もみえる。一葉の本名も夏子なので、萩の舎では、一葉を「ひなっちゃん」伊東夏子を「いなっちゃん」と呼んでいたらしい。
 
[原文 ]
御文有かたく拝見いたし候。先々おまへ様、/此時候にもおさはりなくいらせられ候御事/御よろこひ申上候。次に私方、みなみな無事に候間、乍憚返々御安心被下度候。
小石川御稽古ハ、此前の前よりはしまり候。/しかしおひるまてに御さ候。此つきよりいつもの/ことくおひる過まてに相成候。小石川の御病人/ハ、およろしき方に御さ候へと、伊東先生ハもはや/今日明日のおありさまのよし。先生の御心/もさそかしとそんし、おかき遊ばしたる/おたにさくをミるたびに、実に心地あしく/相成候。私のへほかすよみハ、ことことくいちやにて/すつかりほねほりそむをいたし候。
  庭移野花  虫鳴草花
  原鹿    不堪待恋
  対月忍昔  古郷萩
  田家萩   御女郎花
  近不逢恋  海辺重宿
これハ此頃のお題に御さ候。おひま御さ候はゝ何とそ/御稽古日に御出願上候。先ハ御返事まで。/かしこ。
とくより御手紙さしあけんと存居候所、おまへ様の/所がきをしつねんいたし候間、つひお返事に相成り、おそれ入候。
  私はおまへ様のあねなどゝハ思ひもよらぬ事、/やつかい妹とおぼしめし被下度候。
な津より/御姉様 おかへし
 

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