*ここに展示されている資料は、2002年5月に開催された、展覧会「文人たちの手紙――にじみ出る素顔――」に出陳されたものです。

[その4]


  
 
19 泉鏡花書簡
 
星野麦人宛 明治35年(1902)1月2日 1巻  文庫14 C24 
[解説]
 泉鏡花(1873-1939)が明治35年1月、滞在先の熱海から星野麦人(1877-1965)にあてて送った手紙だが、そのまま「熱海の春」と題して星野の主催する雑誌「俳藪」に掲載されている。大晦日から元日にかけての小田原、熱海での見聞を日記風に発句をまじえ綴っている。
[原文 ]
拝啓
三十日夜相州酒匂松濤園一/泊、間近に富士を望み、松原に寄する/夕波の趣佳シ。
  年の瀬や鶏の声波の音
三十一日、小田原見物。/遊女屋軒を並べて賑なり。/蒲鉾屋を覗き、外郎を購ひなどして/ぼんやり通る。/風采極めて/北八に似たり。/万年町といふに名代の藤棚を/見、小田原の城を見る。二宮/尊徳翁を祭れる報徳神社に詣/づ。木の鳥居に階子して輪飾をかくる状/など、太く神寂びたり。
天利にて昼食。此の料理屋の角にて/小杉天外氏に逢ふ。それより函嶺/に趣く途中、電鉄の線路に/踏み迷ひ、危い橋を渡ることなど/あり、午後四時半塔の沢着。
家のかゝり、料理の塩梅、酒の味、すべて/田紳的にて北八大不平。然れども/温泉はいふに及ばず、渓川より/吹上げの手水鉢に南天の実と一把の/水仙を交へさしたるなど、風情いふべ/からず。又おもひかけず久保飯田の両氏に逢ふ。
こゝに一夜あけの春、女中頭のおぬひ?/さん(此の姉さんの名未だ審ならず、大方/然うだらうと思ふ、)朱塗金蒔絵三組/の盃に飾つきの銚子を添へ、喰積の/膳を目八分に捧げて出で来る、三ツうけ/て屠蘇を祝ふ。
  箸をお取り遊ばせといふ喰積や
十時出発、同五十五分の電鉄に/て小田原に帰り、腕車を雇ふて熱/海に向ふ。此の道、山越七里なり。
城山を望みて、
  山焼くや豊公小田原の城を攻む
   此の間に石橋山の古戦場あり。
山中江の裏にて昼食。古代そッくりの建/場ながら酒の佳なる/こと驚くばかり、ブダヒの煮肴、蛤の汁、/舌をたゝいて味ふに堪へたり。
  山行けばはじめて松を立てし家
真鶴の浜、風景殊ニ佳シ。大嶋ま/で十三里、ハジマまで三里とぞ。
伊豆山にて、
  門松やたをやめ通る山の裾
五時半熱海着、
今朝梅林に金色夜叉の梅を見/る、冨山唯継一輩の人物あるのみ。
  兀山の日のあたる処遣羽子す。
   いづれを見ても山家育ちさ。
紀伊の宮樟分の社に詣づ。境内の棹/幾千歳、仰いで/襟を正しうす。
  あけの春大棹に雲かゝる
なほ例年に比し、寒威きびしき由にて梅/なほ苔なり。
  梅はやき夕暮日金おろし哉
ヒガネと読む。西風の寒きが常熱/海の名物なりとか、三嶋街道に十国峠/あり、今日は風凪ぎ気候温暖、三に三度/雲の如き湯気を巻いて湧き出づる湯は実/に壮観にござ候。/後便万縷 敬具
二日/鏡花/麦人様

 


 

 
 
21 与謝野鉄幹書簡 
本間久雄宛 大正14年(1925)4月6日 1巻  文庫14 C38
[解説]
 大正14年、文部省が「かなづかい」表記の改定案を出したとき、雑誌「早稲田文学」はこの問題を特集した。その寄稿者の一人で文部省案に大反対であった与謝野鉄幹(1873-1935)が、編集主任の本間久雄にあてて送った手紙。便宜主義的、場当たり的な文部省案に対する怒りと母国語の伝統への鉄幹の強い愛着を示す手紙である。
[原文 ]
  啓上
春のまざかりとなりました。/御清健を賀上ます。
さて、只今、外出して帰宅し/ました処、「早稲田文学」よ/り稿料お遣し下され、ま/ことに意外に存じ、忝く存/じます。あのやうなる御答/につきて、御礼を頂くべき/でないと存じますが、定めて/大兄の御芳情に由る事と/想像し、難有く拝受致/します。久しく文筆に/遠ざかつてゐるため、之が/この十年間に、小生の貰ひ/受けました稿料の第三号/です。(一度ハ三田文学、一度/ハ中央公論)不思議なる収/入として大に喜ぶ次第です。
文部省の新仮字法に御反対/され、味方を得たることを/嬉しくおもひます。昨日も/名古屋から木下杢太郎君/が上京せられ、お目に懸りました/節、談ハあの問題に及び/て、国語擁護会とでも申す/ものを同志の人々で興し/たいと申され、小生も同感/を表しました。出来ること/なら、具体化したきものと存じ/ます。あのやうな乱暴な改革/運動が、猶、この後も台/頭致すであらうと想像/すると、少数の者が、それに/反抗して、正しき道を/守る運動が必要であらう/と考へます。
草々拝具
与謝野寛/四月六日夕/本間先生 御もとに
    (封筒表)雑司ヶ谷町一四四 本間久雄様
    (封筒裏)東京市麹町区富士見町五丁目九番地与謝野方/「明星」編集所 与謝野寛



  
 
23 有島武郎書簡
 
本間久雄宛 大正9年(1920)1月30日 1巻  文庫14 C54
[解説]
 『或る女』などで有名な大正期の人気作家有島武郎(1878-1923)が、「早稲田文学」の大正9年3月号の寄稿依頼に対して返した手紙。書中にある「我等」とはいわゆる大正デモクラシーの代表的雑誌で、そちらに先約があるため執筆できないという事情を述べている。

[原文 ]
本間久雄様
其後ハ永らく拝/芝の機を得ずに/居ますが、益御清/祥の事と存上ます。/早文の三月号に/執筆の御勧誘/を難有く存じます/が、「我等」の同月号/ハ丁度一年記念に/なるので「雑信一束」/を執筆する約束に/なつて居り、其他にも/果し得るか如何か/知れませむが、前約/がありますので、多/分御厚意に背/かねバならぬかと/存します。出来た/ら必差上げますが、/右様の事情故御約/束をし兼ねる事を/御含ミ置き願上/げます。
 不取敢御返事方。早々頓首。
一月三十日朝/有島武郎
    (封筒表)市内小石川区高田老松町十七番地 本間久雄様
    (封筒裏)糀下六、一〇 有島武郎



  
 
24 与謝野晶子書簡
 
藤島武二宛 (年未詳) 8月17日 1巻  チ6 3890(221)
[解説]
 歌人与謝野晶子(1878-1942)の書簡。宛先の藤島武二(1867-1943)は白馬会系の洋画家で浪漫的な作風で知られ、雑誌「明星」の表紙・挿絵を描いたほか、晶子の歌集『みだれ髪』の装幀をしたことでも有名である。

[原文 ]
 啓上/御清安と存じ上げます。/さて突然で御坐いますが、高島/屋がこの秋の百選会の作品/を御批評ねがひたいために先/生外数氏の御来観を御/頼みするやうと申すことで、この/手帋を認めます。委しくハ/この状持参の同店美術部/の人より御聞取下さいまし。/特に御差繰下さいますやうに/願ひます。/場所と日時も店員の人よ/り申上げます。/ 艸々/  八月十七日/ 与謝野晶子/ 藤島先生 御もとに
    (封筒表)曙町十六 藤島武二先生   御もとに
    (封筒裏)与謝野晶子


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