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臺湾土俗版画 略解説
(昭和十一年一月 淺井暹記)
目録に列記した名称は、満州の分に於けると同様な方法を取った。
満州、詳しくは南満州関東州大連市を中心としての採集品と、一部の大石橋娘々廟の特殊な分を一括して、土俗版画分布上より見て、北方系を表すものとすれば、福建、廣東の両地方からの移住民に依って形成されてゐる所謂る本島人なる名称を持つ台湾の漢族の俗信上に於ける版画は、幾分かの台湾的郷土色を浸ませてゐるものと假定しても、彼に對して、廣い意味で南方系を示すものとして取り扱ふことに無理はないと思ふ。
北方系と南方系とは、大体として、ひどく差異のあるものではないが、間々気付きたる点を二,三上げれば、北方で竈神像が廣く流布して、必ず祀られてゐるのに對して、台湾では、その信仰が極めて微力なものとなって居り、竈神像を祭祀した家を未だ見たことがない。胡仙(胡仙太爺、或は胡老仙爺等称する)と云ふ神は、北方特有のもので、南方では用ひられないのは兎に角として、北方の娘々神の信仰に對立して、天上聖母(天后聖母、或は媽祖と称する)は、台湾の各地方の至る処に祀られ、又この神への信仰上に関する呪符、神像等の版画の種類が甚だ多様である。尚、その他の差異に就いては後記することとしたい。
それから、既に述べたことであるが、特殊な大石橋のものは別にして、大連のものは、山東から輸入されてゐる。しかるに、台湾では、稀には對岸から將來されもするであらうが、殆ど此の地で製作されてゐる。而して、今、吾々の觸れてゐる問題とは別個の觀点に立つことになるが、版画技術の上から、若しくは、美術としては低位なものであるが、一つの民俗的版画作品として眺める時に、両者の對立を明確に意識し得るのである。即ち、北方系は多彩刷であり、筆彩が加へられたものが多いのに比して、南方系の台湾のものは、粗野で單純な点を見逃せない。この原始的とさへ見ゆる作品に、素撲な力強い美しさを覚えることが出來る。
さて、目録に從って、極めて概略に解説を加へることにしたい。
No.1,2の一對の『武門神』。 No.3,4、No.5,6、No.7,8、No.9,10の各對の『文門神』は、満州の武門神、文門神と同様に使されることは云ふまでもない。
No.11の『百子千孫』を、分類上『單門神』としたが、北方の單門神に正確に符合するものがないので、北方に於ける單門神的に使用される場合がある点を取って、便宜上斯様に扱った。この図像は居室に通ずる入口の扉や、屋後の門に貼られてゐる場合があるが、どちらかと云へば、授兒祈願、引いては多子を表徴したものとして、失張り寝室の壁面に貼附されるのが、普通の方式である。台湾には、満州の所謂る『門童子』――麒麟送子型――なる版画がないが、『百子千孫』は、本質的には、むしろ單門神に入れるよりも、門童子の類としたほうが妥当かも知れない。
No.12を、本島人は『獅頭』と称してゐるが、虎頭と見る方が、正当かも知れない。門の上辺には、必ず方形の木版に、この様な獣頭か、或は八卦を彫刻して彩色を施し、駆邪符として取り附けてある。而して、貧しい家では、木製のものの代りに、この版画が貼附されるのである。――満州では、獣頭のものを余り見受けず、殆ど八卦を表したもののみである。又、版画のものも見かけたことがない。
No.13,14,15は、版画技術的には、北方の多彩刷の版画に近似してゐるものである。これ等は、紙?[厂に昔]と称されてゐる紙製の家屋や宮殿の模型に、適宜に貼りつけられる種のものである。―――死者の命日に紙?[厂に昔]を作って燃すのは、冥府の死人に家を送る為であり、子供が十六才に達すると、七娘夫人にこれまでの加護を謝して、月宮殿を象った紙?[厂に昔]を作って祭るのである。
No.16,17は、大形と小形の二種の『天官賜福』と題せられてゐる版画である。この種の画像は、北方では見受けられない。時には單門神等に吉祥文字として、天官賜福と識されたものはないではないが、勿論、台湾のものとは別個のものである。この版画は、主として室内の壁面に貼られてゐる。而して、軽い意味の吉祥画としてよりも、祝福符として、明確に意識されてゐると思はれる。
No.18―48を、満州の分の目録に於けるNo.133―174<No.21―62>,No.175―194<No.63―82>の如く、便宜上呪符として分類した。此の地のものは、満州のもののやうな多彩刷り版画とは異なって、――大石橋娘々廟のものとは稍や類似するが――墨一色刷の極めて素樸な版画である。使用法は、禁厭の為に、神前等で焼却するが、壁面等に貼って祀られる場合はない。北方系と同様の神の表現もあるが、大体として別種の神、乃至は台湾的称呼かと考へられるものが多いのが注意される。すべて原始的な表徴に富んでゐる事を見逃し得ないと思ふ。No.48の『経衣』とある版画は、満州に於いては同系のものを『冥衣』と称されてゐる。――満州の分の目録では、No.126<No.15>冥衣として、呪符類より分離して置いたが、この類に入れる方が適当であったかも知れない。
No.49,50は、『頂極金』と俗称されてゐる燒金紙中の最大形のものである。これを神前等で燒いて、金銭を神に送り届けるものとしてゐる。尚、この種のものに、大、中、小各種の大きさや、銀色のもの等の種々の別がある。――北方系には、一枚づつに図像等を印刷したものは稀れである。冥票とか鬼幣とか称する近代貨幣や紙幣を模したものがあるが、これは死者のみに用いられるのである。
No.51―73の各種の神像符は、台湾各地の主要な寺廟で、夫々の祭典時に際して、信者に頒つもので、異例として、特に常時参詣者の多い寺廟では、求めに應じて発給してゐる。――No.73の『張天師像』は、廟ではなく、台南市内の某道士壇のもので、曽つて、某廟の祭典に依頼に依り、此の符を刷ったのであると、其処の道士は語ってゐた。けだし、『張天師像』は廟祭、特に廟の落慶式の如き際に、道士壇の手を経て発給されるものと思はれる。No.72の『張天師像』は、即ち『大士殿』と称する觀音を主神とした廟の修築落成の祭典時に採集したものである。――これ等の神像は、各家庭の正廳と称する祭壇を設けた室に祀られる。満州に於いては、何処の寺廟でも、かうした神像符を発給しないのが例である。さうした理由からか、觀音や、天上聖母(天后聖母)や、薬王等の各種の神像が、満州で市賑されるのであらう。――満州の分の目録の呪符類の中に包含される神像は、一面に於いて台湾の神像の如く、各家の神壇に祀られてある場合を見受けることの当然なのを首肯し得る。然し、満州では、正則には眞に神像として室に掛けられるは、別に表装を施した幾分か丁寧な仕上げをしたものが、それである。
No.74―106の各種も、前記の部類と同じく寺廟より定時、或は常時に発給されるものにかかる。No.74―98の類を、假に『鎭宅平安符』としたのは、参詣者が寺廟より得た文等の符を呪力あるものとして、換言すれば鎭宅平安符としての呪力あるものとして、自家の祭壇に祀る点を、主要形式と認めたからである。――駆邪押?[殺]符、天師符、六丁六甲等の文字のものも、便宜に此の類に入れて置いた。――No.99―106の八種は前部類に對して、水符として分けた。各符の名称で想像し得るやうに、これ等は、信仰する神佛の寺廟に到り、神前で祈願の後に、此の符を受けて帰宅し、自家の祭壇で一定の儀禮のもとに、此の符を焼いて灰となし、神前に供せられてゐる聖水に投じて飲用するのである。故に、之等の符は、俗に水符と云ふ名称を與へられてゐる。――No.105,106の二枚は、採集の時に明確になし得なかった関係上、純粹に水符に屬するものか疑問としてゐる。
前記したやうに満州の寺廟からは、神像や其地の符を発給しない。――道士に頼めば随時、水符等を筆で書いて呉れるが、これは台湾でも同じいことである。――しかるに、台湾の各地の廟からは、実に多種多様の符類を出すことは、目録に採用してある分で以も、それを想像し得ると思ふ。而して、これ等の符は、職業印刷師に、廟に保存されてゐる版木を渡して刷らす廟もあるが、粗末な雅致に富んだ刷り上りのものは、多くは廟守などが、無雑作に必要に應じて刷ったものである。
以上で、調査不充分に依る極めて不備な此の短文を、一先ず結ぶことにする。唯だ今後の研究を待って、完璧を期すものである。
(昭和十一年一月 淺井暹記)
(c) Waseda University Library 2004-