目次
- 扉
- はじめに
- 西洋の製本装丁略史
- 15-16世紀前半
- 16世紀後半南ドイツ
- 17世紀フランス
- 17世紀英国
- 17世紀ロシア
- 18世紀フランス
- 18世紀イタリア
- 18世紀英国
- 19世紀以降英国
- 19世紀英国の版元製本
- 日本における洋式製本の受容
- 幕末の洋式製本
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我が国への本格的洋式製本の導入は明治6年のお雇い外国人A.パターソンの来日に始まる。その年に柴田昌吉・子安峻によって日就社から『英和字彙』(四六倍判)が緑色仔牛革製の洋式製本・装丁が施されて刊行された。これを以って我が国の本格的な洋装本の嚆矢としているが、それ以前については専門的な調査研究事例がないためはっきりとしたことがわかっていない。実際にはそれ以前から我が国で洋式製本が行われていたことを推測せしめる資料が早稲田大学図書館所蔵の洋学文庫に見出されるが、これまで洋式製本装丁の専門家がこれらの資料を扱ったことがほとんどなかったため、詳しく調査されていなかった。
早稲田大学図書館では、劣化が激しい1618年版ドドネウス草木譜の修復を書物修復家に依頼しているが、装丁についてさらに専門的な調査を委ねたところ、綴付け、表装材の末端の処理、表紙芯材などの特徴から、洋式製本の知識をもった日本人によって江戸期に日本で行われた本格的な洋式製本である可能性が高いという結論を得た(岡本幸治「『独々涅烏斯草木譜』原本は江戸期の洋式製本か?」『早稲田大学図書館紀要』45号、1998年、pp.24-42参照)。
また、洋学文庫にも同様に幕末までに国内で製本されたと考えられる洋書が見られる。第一に、宇田川家旧蔵書Trommsdorf, Leerboek (Amsterdam, 1815. [文庫8-B237])の背とコーナーに施された赤色革が宇田川榕菴旧蔵のSprengel's Anleitung zur Kenntniss[文庫8-B234-3]の装丁にも見られることから、この革の使用が宇田川家、とりわけ宇田川榕菴と関係があることが推定される。また、同じ革が勝俣家旧蔵の蘭書写本Roose, Hand Boek der natuur kunde[文庫8-C1159]の装丁にも使用されている点は写本の製作者あるいは所持者が宇田川家と関係があったことを推測させる。
第2には、安政4(1857)年に長崎で活版によって復刻刊行されたReglement op de exercitien [文庫8-C1153]とPijl, Gemeenzame leerwijs [文庫8-B256]にはともに「安政丁巳」「長崎官事点検之印」という印記があり、装丁も緑色のモロッコ革によるクォーター・レザーと茶色仔牛革によるコーナー・カーフで、表紙は茶色の手染め紙が使用され、さらに背に3本線の金箔押しが施されており、両者が長崎の同じ工房で同時期に製本装丁されたことを示している。当時長崎では1856年6月に長崎活字版摺立所が開設され、翌年6月には長崎製鉄所内にオランダ印刷所が開かれていた。これら両書がどちらの印刷所から刊行されたかは大きな問題であるが、いずれにせよ両書は装丁年代のはっきりしている我が国最古の洋式製本の一つということができよう。
第3には、明治の書物収集家林若樹旧蔵のHufeland, Enchiridion medicum [文庫8-C1128]は袋綴じで安政5(1858)年に「Houzai」によって活版印刷されたものであり、茶色仔牛革のクォーター・カーフとコーナー・カーフが施され、表紙には空色の紙が使用されたユニークな外観をもつものである。そして、本書には前者のような長崎蕃書調所の点検印がなく、しかも印刷事項は巻末に「herdrukt door A. j. Houzai, Anzei 5 jaar」という印によって示されているのみである。もし、本書が原装を保っているとすれば同時代に製本が行われた可能性もあろう。
ところで、前述のドドネウス草木譜の装丁はこれらのいずれとも異なっている。これら3種類の装丁に共通する点は、18世紀末以来西洋で普及したクォーター・レザーによる簡便なボード装丁である。ところが、ドドネウス草木譜の装丁は全面に織物を使用し、背題のためと思われる赤色の革を背に張り付けて革装丁の洋書の模倣をしているが、和書の伝統である題簽を表紙に張り付けており、前者とは技術的な差が感じられる。これらの相違は時代差なのか、単に技術的な習熟度なのか即座に判断することは困難であるが、少なくとも、それらの差は洋書についての理解度に基づいていることは間違いなかろう。ドドネウス草木譜の翻訳は文政6(1823)年に松平定信の命により着手され、完訳されたが文政12年の江戸の大火で大部分が焼失し刊行することができなかったという。本書がその翻訳原本であり、訳出の際便宜的に7分冊され、翻訳完成後に製本して同じ織物(フランス製ジューイ更紗?)で統一して装丁したとすれば、装丁は文政12年頃あるいはそれ以降になされたものであるということが推定される。また、織物の制作年代が18世紀末以降であるが、安政4年より後になってから装丁されたとは様式的には考えにくいのではなかろうか。
このような4種類の洋式製本が洋学文庫などに見られるが、安政4年が確実な装丁の年と考えれば、それより以前からなんらかの試みがあっても不思議ではないし、またそれ以降に洋式製本が徐々に発達していったと考えることができよう。今後洋学文庫に見られる製本装丁を専門的に調査すれば、我が国における洋式製本の技術的な導入あるいは受容の過程がはっきりしてくるのではなかろうか。
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