角田柳作を知る
「無名の巨人」角田柳作は、日本、ハワイでの教員生活ののち、さらに学問を志して40歳で米国の土地を踏んで以来、87歳で死去するまでの人生の大半を、米国、主にニューヨークで過ごしました。氏の米国における日本文化研究・教育の功績にもかかわらず、日本では「角田柳作」の名はあまり知られていませんでした。日本文学の翻訳や日本学によって著名なドナルド・キーンが敬愛をこめて師・角田を語り、1993年には『週刊朝日』に連載されていた司馬遼太郎のエッセイ『街道をゆく』でも紹介されたことから、角田柳作という人物が少しずつ日本人にも親しみのあるものになってきました。
コロンビア大学の"Sensei"第二次世界大戦時の苦難な時期をはさんで半世紀にわたる滞米生活のなか、彼の研究・教育、資料収集活動はたゆむことなく続けられました。彼が「日本図書館」を創設し、人材の育成と資料の収集に力を注いだコロンビア大学では、"Sensei"と言えば他の誰でもない角田柳作のことを指す、と言われています。コロンビア大学における「日本学の父」ともいうべき彼の業績からだけではありません。学生や周囲の人々は、角田の深い教養と学問に対する真摯な姿勢、質素で慎ましい生活と謙虚な人柄にふれ、尊敬と親愛をこめて彼を"Sensei"(先生)と呼んだのです。
日米の架け橋ニューヨークに渡った角田は、ニューヨーク日本人会幹事(のち、書記長)に就任します。日本文化の紹介および研究の中心となる施設の設立を計画した角田は、The Japanese Culture Centerの設立にあたり、その事業の大きな柱のひとつに日本関連文献の蒐集・整理・展覧をすえました。1927年には、日本国内の拠点となる日米文化学会の創設と文献収集への寄付を募るため帰国し、精力的に活動しました。皇室、政界人、事業家などからの寄付を得、収集されたコレクションは、1931年にコロンビア大学に移管されることになり、角田はCuratorとして資料の保管整理にもあたりました。その後も角田は日本を訪れて資料の収集に奔走しています。コロンビア大学東亜図書館の日本関係のコレクションは、収集だけではなく、整理や目録作成にも力を注がれることにより、継続して充実をとげながら、現在にいたるまで内外の研究者たちに寄与し、全米有数のコレクションと言われています。
3つのL角田は、文化を語るにあたり、時に「スリー・エルス(3L's)」という言葉を使いました。3つのL、すなわち"Law"(法), "Love"(愛) そして "Labor"(労働)という三方面から物事を考える必要があり、それぞれの相関と調和を以ってこそ、人の世の光となりうるのだという考えです。若い頃から仏教に深い関心をもっていた柳作は、「法、願、行」という仏教用語でこれを説明することもありましたが、同時にアメリカの歴史や、ヨーロッパの文化にも触れながら、3つのLという考えについて語りました。国や宗教にこだわらない大きな視野の文化論、人間論であったといえるでしょう。
"Three L's"カード [ 大きく表示 ] 対訳:
略年譜
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