坪内逍遙(雄蔵、1859-1935)は幕末の美濃国(現在の岐阜県)に生まれ、1876年(明治9)東京大学の前身である開成学校に入学、
高田早苗(半峰)、
市島謙吉(春城)ら、のちにともに早稲田大学を支えてゆく人々と知り合うことになります。その後、幼い頃から親しんだ歌舞伎や近世の戯作に加え、新たにイギリスを中心とした西洋文学の知識を吸収し、卒業後は大隈重信が創設した東京専門学校に講師として参加、草創期の早稲田を支える1人となりました。一方では
『小説神髄』によって自らの文学理論をまとめあげ、その実践的成果として『一読三嘆
当世書生気質』を世に送り、江戸の戯作と西洋小説との間の、いわば架け橋的な役割を果たしました。その後は小説だけでなく、劇作家、翻訳家としても活躍、1890年(明治23)には東京専門学校に文学科を設立、翌年には『早稲田文学』を創刊します。このことからわかるように、早稲田の文学は逍遙無くしてはありえなかったと言えるでしょう。1906年(明治39)には文芸協会設立に尽力、
島村抱月らとともにその後の新劇運動をリードしてゆきます。1915年(大正4)に早稲田の教職を辞し、熱海に居を移し、晩年にいたるまで劇作、翻訳を続けました。そして1928年(昭和3)、逍遙の古稀を記念して早稲田大学に
坪内博士記念演劇博物館が開館したのです。