古文書50選

1.東大寺薬師院文書 10巻(15通) 重要文化財 リ5 3740(1—10)
天平勝宝2—延喜11(750−911年)

現在早稲田大学が所蔵する2つの国宝と、重要文化財の東大寺薬師院文書は、初代館長市島謙吉(春城)の時代、田中光顕から寄贈されたものである。薬師院は東大寺の塔頭の一つで、明治時代廃仏毀釈の時代の流れの中で廃され、伝来した資料、文書も散逸した。その一部を田中が入手し、さらなる散逸と死蔵を恐れ早稲田大学に寄贈したもの。

(1)大宅朝臣賀是万呂奴婢見来帳 1通 リ5 3740(1)
天平勝宝2年(750)9月5日
重要文化財(東大寺薬師院文書)

河内国(大阪府)から送られた奴婢が到着し、東大寺側がそれを受領したことを示す文書。受け取りに際し、一人ひとりについて年令やホクロの位置などの特徴を記している。

(2)相模国司牒 1通  リ5 3740(2)
天平勝宝7年(755)5月7日
重要文化財(東大寺薬師院文書)

奈良時代に大和国(奈良県)の東大寺の運営を司る造東大寺司が、平城京内にあった相模国(神奈川県)調邸(国府から送られてきた調を保管しておく施設)の土地を買収した際の文書。

(3)太政官牒   1通 リ5 3740(7)
807年(大同2)5月22日
重要文化財(東大寺薬師院文書)

東大寺の三綱に宛て、御在所修理のための木工6人を北陸道の東大寺領より進上するよう求めたもの。署名のある秋篠安人は、この前年に設置された北陸道の初代観察使である。

2.観世音寺文書 2巻 文庫12 2
天平宝字3年(759)8月5日 保安元年(1120)写

観世音寺は8世紀の創建と伝えられ、西海道(現在の九州地方)の中心的寺院として栄えたが、その後衰退し、保安元年(1120)に東大寺の末寺となった。本文書はその折に観世音寺から東大寺にあてて送った関連文書の写し(案文)である。原本が焼失したためそれにかわるものとして貴重である。内容は観世音寺に借財のあった筑前国在住の者が、その代価として奴婢5人を寺に進上する旨を申請、国がそれを認めたことを観世音寺に伝えたもの。他に関連文書4通を1巻に仕立てたもので、軸の上部が五角形に突出している。これは往来軸(立籤)と呼ばれるもので、ここに標題等を略記することで、巻いた状態で積み上げたとき内容がわかるようにしておく。

3.尾張国郡司百姓等解文 重要文化財 1巻 文庫12 1
永延2年(988)11月8日 弘安4年(1281)8月5日写

早稲田大学図書館には、第9代館長であった荻野三七彦教授の収集になる各時代の標本的な古文書がのこされている。そのなかには重要文化財3件が含まれているが、これはその一つ。永延2年(988)11月、尾張国の郡司、百姓等が国守・藤原元命の3年にわたる非法、苛政を朝廷に訴え、その解任を求めた文書である。本写本は、全31条のうち、第14条末尾から31条の一部を欠いているが、他の写本にくらべ最も書写年代が古く、かつ解文提出の日付がわかる唯一の写本として貴重である。木村蒹葭堂旧蔵。

4.尊勝寺領香庄文書(近江国) 重要文化財
仏師運慶自筆置文 2通 文庫12 9(2,3)

香庄文書は、現在の滋賀県愛知郡にあった荘園・香庄の伝来かかわる31通(6巻)の手継文書で、昭和53年(1978)、重要文化財に指定された。本文書はそのうち、第2・3巻に収められた「鳥羽院庁下文」「大江通国譲状」の紙背に記されたもので、平安時代の仏師・運慶が、自らの娘・如意が香庄を伝領することを保証するために記した自筆文書である。

5.藤原師通御教書 1巻 イ4 3153 A1
[寛治6年(1092)]11月14日

平安時代末の関白である藤原師通(後二条師通)が、自らの病気平癒のために醍醐寺で修させていた不動護摩結願の日などを醍醐寺座主勝覚に尋ねたもの。紙背の嘉保3年(1096)の請雨祈祷張文や師通の日記(『後二条師通記』)から年次が推定される。料紙全体にわたり下端が切断されていることが惜しまれる。

6.紀姉子文書紛失状  1巻 イ4 3153 A2
大治元年(1126)4月12日

紛失状は、土地証文の焼失・盗難等に際し、旧来の文書の効力を奪いそれにかわるものとして作成される。本文書は、紀姉子なる女性が、養子に譲り渡した畠地を取り戻すべく、先に作成した関係書類を無効にするために作成した紛失状である。姉子の名の下の墨点は拇印と考えられ、日本における拇印の初見史料として注目される

7.後鳥羽天皇宣旨 1通  文庫12 204
文治2年(1186)4月25日

各行とも、文字が下にゆくに従って小さくなる、宣旨様式の典型的な特徴を示している。内容は高雄神護寺の僧・浄覚坊の狼藉に関する石清水八幡宮の訴えをうけた朝廷が、浄覚坊自身に対し弁明を求めたもの。