「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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角田先生の思い出(5) 010203040506
甲斐美和 元コロンビア大学図書館司書(録画)
宗像和重(早稲田大学図書館副館長):アメリカで教えておられるということと、故郷の日本ということと、やはり様々な複雑な思いがあったのでしょうね。
甲斐美和:深い思いが残っていましたね。最後も日本に帰られるという決心をなされたわけですが、お嬢さんがこちらに1人おられて、長男がハワイにおられたのにもかかわらず、日本に帰るというわけで。
宗像和重(早稲田大学図書館副館長):日本的なものに対する深い思いがずっと残っておられて、今のお話のように結局日本に帰ることを選択されるわけですが、途中のハワイで亡くなられるわけですが、最後のご帰国というかご旅行のことで、何か甲斐さんに印象に残っていることはありますか。
甲斐美和:急にお弱りになりまして。ここでご病気だったのでしょうが、お嬢さんのお宅がワシントンDCにあるのです。フロリダには別荘もあるのです。お嬢さんのご主人は『ナショナルジオグラフィック』の最初の出版社のお孫さんで、まだその経営をされていたわけです。ですから資産家なのです。大きなお屋敷がワシントンにありまして、ですから日本に帰られるお別れとしてお出でになったわけです。そうしたところが、そこにお出でのときにだんだん病気がひどくなって。重病までいっていないときにドナルド・キーンとイアン・ポールスキーという仏教専門の教え子と3人で、車でお見舞いに行ったことがあるのです。そのときに2階の寝室で、ドナルド・キーンもイアン・ポールスキー氏もご挨拶に行ったそうです。ほとんど寝たきりと言ってもいいくらいだったそうです。それでもまさか、と思いまして、とにかくそれで3人で車で帰ってきたわけです。それから数週間経ったのでしょう、こちらは仕事があったり、ドナルド・キーンも仕事があったりしますので、そのままになりましたが、最後にいよいよお嬢さんがお連れして日本に帰ることになったときに、私はお見送りのつもりで、発たれる日にワシントンまで1人で行きました。そのときにはもうお話しできませんでした。お嬢さんともお話ししておられませんでした。ただ、車椅子でお見送りしたわけです。ですから、さよなら、とも、お元気で、ともそういう挨拶もできないくらいお弱りでした。
宗像和重(早稲田大学図書館副館長):そういうお体であえて日本に帰ることを選ばれて、しかし結局ハワイで。
甲斐美和:帰る決心は、こちらに戻っていらっしゃるおつもりだったのです。ですから、ご覧になったかどうか知りませんが、時々日本の方が読みますと、日本に帰ると解釈されるのです。早稲田大学の先生ですが、そういうふうに一度訳されたので、私も慌てて手紙で、その帰る、はこちらに帰るの帰るなのです、と申し上げたことがあります。ですから、飛行機さえ乗れれば帰れるのだという気持ちで発たれたのだと思います。
宗像和重(早稲田大学図書館副館長):今日は長い間にわたって貴重なお話をありがとうございました。
甲斐美和:いいえ。半端なことばかりでお役に立たないでしょうが。とにかく今でも学生さん、今は皆さん教授になっておられますが、絶えずお名前、思い出、その他が出てきます。

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