彼は前橋に行って勉強するわけですが、この頃の群馬県の尋常中学校は、どちらかというと寄付金などで賄っていて、公立学校として県がきちんとした形で中学校を経営するというビジョンがまだなかった時期です。ちょうどそういう方向にやろうかという、群馬県の中でも中学校経営を、公共投資と言ってもいいと思いますが、そういう形で経営するかどうかという非常に混乱した時期に彼は入学するということになります。そのために、彼の入った中学では教師の問題、授業体制の問題などでいろいろ学生たちの不満がありまして、その後の回想によると、中学3年生のときに彼自身がストライキの大将などをやったと言っています。そして、学校を辞めさせられるような危機に陥った、という記述があります。そういうことがあって東京専門学校に転校すると。つまり、群馬の旧制中学を卒業しないで、不満を抱きながらまた新たな新天地を求めて東京にやってくるということになりました。
そういった彼自身の東京での勉学を支えたのはやはり兄の保太郎ですが、同時に群馬での角田家の家業である山林経営、あるいは養蚕業、特に養蚕業の場合は現金収入が入りますので、彼自身の東京での勉学を継続的に支えることができたのではないでしょうか。その辺の事情についてはパネルディスカッションの中で改めて展開したいと思っています。
そのような形で彼は東京にやってくることになりました。そこで様々な師に出会います。1人は坪内逍遙であり、大西祝です。そのように様々な良い教師にめぐりあう。同時に東京専門学校文学科の同級生たちが茶話会という一種の自学自習する会を毎月1回くらいやっていたらしいのですが、その中で文学雑誌のようなものを出しながら坪内逍遙などに例会に来てもらうなどして、授業以外での研鑽が非常に彼自身を高めていったと考えていただいていいと思います。ただ、それでも東京専門学校を卒業するときにあたってどうしていいのかわからない、ということを彼は兄宛に出した手紙に綴っているのです。まだ彼はどうなりたいかがわからなかったのです。