パールハーバーが起こって、彼は1941年に敵性外国人という形で拘留されてしまいます。これ以降、こののちの彼の処置をめぐるコロンビア大学の対応や、裁判における彼自身のことばについて大変有名なエピソードがありますが、それはここでは詳しく述べません。ただ、彼が拘留され、仮釈放になって再びコロンビア大学で教壇に立った後も様々な形でアメリカ側の官憲と交渉しなければいけないのですが、アメリカ側からの最大のアクションは何か。それは1942年6月10日前後に、日本への帰国船を君のために用意したと言うのです。だからあなたはそれに乗って帰国したらどうだ、という提示を受けます。しかし、角田ははっきりと帰国船に乗船することを拒否します。つまり、自分は人種的にアメリカの市民権を取ることはできない日本人である。だから、私は日本にも忠誠を誓うが、同時に、アメリカにも忠誠を誓うと言うのです。非常に複雑ですが、本来だったら彼は人種的な問題がなければアメリカのシチズンシップを申請したかもしれない。彼は永久にアメリカに住みたいのだということをこのときに明言しています。
日本に帰る気持ちはなかった。日本に帰ってきたら彼自身を迎えてくれる職はなかっただろうと思います。当時コロンビアから支給されていた年俸は4000ドルです。これは大変破格です。キュレーターという職務としては大変良かったと思います。教えるサラリーはコロンビアからは出ていませんでした。職場、ポジションとしてはレクチャラーという形で与えられていますが、この4000ドルは図書館長としての報酬であったわけです。そういった意味で、65歳を過ぎた角田に対してコロンビア大学がいかに暖かく見守り続けたかと。そのコロンビアに生涯を捧げたいという気持ちが、彼自身をしてコロンビアでの教育活動を非常に熱心なものにした。人を感動させるようなものにしたのではないかと思われて仕方がありません。以上です。