当時の東京専門学校卒業生、とりわけ文学科の学生にとっては、主な就職先はジャーナリズムの世界、あるいは旧制中学の教員になることが最高の仕事場であった時代ですが、彼自身も迷ったようです。そういう中で坪内逍遙の紹介だと思うのですが、徳富蘆花がいた民友社に英文雑誌でFar Eastという雑誌があったのですが、そこに彼は校正係として就職することになります。後の彼の回顧によると、このときにFar Eastで仕事を与えられたことが、その後のニューヨークでのJapanese Culture Centerを意識させるようなものであったと言っています。だからといって、ではこのときにそういう方向に踏み出すかというと、まだ踏み出さないわけです。
そういったジャーナリズムの中で生活していく中で、たまたま京都にある現在の種智院大学の前身である当時の宗教学校、ちょうどその頃は文部省の指導で従来の宗教学校が普通教育も施したほうがいいという方向転換を迫られ、やはり英語など宗教以外の科目も設置しなければいけないという情勢にたまたまなりまして、そういった中で沢柳政太郎という、当時の文部省高官の推薦で京都に行くことになります。月給が20円だったと思いますが、当時の小学校教員の初任給が5円前後であったことから言えばかなりの高給であったと思いますが、彼は京都に赴任していきます。
そこで結婚生活を始めながら京都の生活をするわけですが、同志社大学の神学部に行って勉強したり、自分の学校にいた真言宗の教師にいろいろ真言宗の手ほどきを受けたりという経験を積む中で、京都で生まれた子どもがそこで亡くなってしまうのです。後の回想ですが、そのときに赤ちゃんを全然抱かなかったと。つまり、僕はもっと偉くなりたかった、そういう記述を福島時代に回想していますが、それほど論文を書くなど自分の勉学に集中して、自分の赤ちゃんが傍に寄り付くのをはねのけて自分の勉強机に向かっていったという時代です。京都時代をそういう形で自らの研鑽の場として形作るわけです。