田中光顕は、土佐藩士として明治維新を実際に体験した人物である。
はじめ武市半平太(瑞山)に師事し土佐勤王党に所属、討幕運動に身を投じた。その後、暗殺された中岡慎太郎の後をうけ陸援隊を率い、土佐藩の尊皇攘夷の動きを支えた。
維新後は新政府において、警視総監、元老院議官、さらには宮内大臣といった重職を歴任、伯爵に叙せられる。雅号を青山と称し、古書、古典籍への造詣も深く、資料を収集するのみならず、それらに関連した随筆も多くのこしている。また、自らと同じ時代を生きた維新の志士たちの遺墨収集にも力を注いだが、資料が死蔵(私蔵)されることを好まず、ほとんどすべてを手元に置かず、地元高知の博物館や、早稲田大学図書館などに寄贈した。
なぜ早稲田だったのか。そこには、いわば偶然の出会いがあった。
田中は1890年(明治23)、中国の南北朝時代、梁の人によって著された『礼記子本疏義』の唐代の写本を入手した。それは中国にも同種の資料が存在しない、まさに”幻の書”ともいえる稀覯本であった。そこで田中はその内容、状態などを広く知らしめるために複製を作成、その話を聞いた当時の早稲田大学図書館長
市島謙吉(春城)が、図書館に頒けてもらうべく人を遣わすと、なんと原本を寄贈してくれた、というのである。理由は、こうした資料は自分が持っていては私(死)蔵になる。それならば、一般に開かれた図書館にあったほうがいい、というその一点にあった。田中と早稲田、というより市島との交流はここに始まり、その後、『玉篇』(唐代写本・国宝)、『東大寺薬師院文書』(重要文化財)、『維新志士遺墨』も同様に田中から寄贈され、現在図書館の至宝となっている。
後に市島が図書館長をやめるとき、田中が贈った歌に「愛(め)でゝ守(も)る 人しあらねば
千代の書(ふみ) しみのすみかと なりやはてなむ」とある。
資料が失われないよう収集・保管し、それを公開する。同じ思いを持った2人によって、図書館に貴重なコレクションが収蔵されることとなった。