Okuma's civil service career
Political change in Meiji 14 (1881)
Founding the Constitutional Reform Party
Negotiating treaty revision and two periods as Prime Minister
Founding the Tokyo Senmon Gakkō
Cultural activities and exchange
A visit to the Okuma house
Chronology / the life of Okuma Shigenobu
明治政府官僚時代
辞令 任徴士参与職外国事務局判事
慶応4年(1868)3月17日 1枚 イ14-D166
徴士とは各藩の藩士から新政府に登用されたものをいう。大隈は長崎での働きにより、佐賀藩士としては副島種臣についで登用され、参与に任ぜられた。外交上の難問を抱えた新政府の窮地打開を賭けた大抜擢であった。
辞令 任大蔵大輔
明治2年(1869)7月8日 1枚 イ14-D177
明治2年に大蔵省が新設されると、大隈は大輔に就任、国の財政金融を司る実質上の最高責任者となった。この後、明治6年(1873)の大蔵卿就任から「明治14年の政変」で下野するまでの8年間、いわゆる"大隈財政"を展開した。
対英外交文書
大隈四位、東久世中将 カ05 04123 70
浦上信徒問題について、外交官副知事大隈と准知事東久世通禧から英国公使パークスにあてたもの。事件の真相を調査した結果を述べ、外交団側に「路傍之浮談」による誤解があったのではないか、との見解を申し送っている。
辞令 任参議
明治3年(1870)9月2日 1枚 イ14-D185
参議は左右大臣・大納言と共に太政官を構成した重職。廃藩置県後は太政大臣・大納言と共に正院を構成。雄藩の代表者が選ばれ、明治政府の中心勢力を形成した。明治3年には大久保利通・木戸孝允ら8名がその職にあった。
大隈参議全国一致之論議
大隈重信 明治3年(1870)9月2日 1冊 イ14-A1
大隈が参議就任の条件として提出した意見書。国民を守護し、真の独立国として万国と対等の交際を実現するには、国民の一致による他はないと論じ、その必要性を説いた。終生大隈の政治・外交の根本理念となったもの。
上州富岡製糸場之図
歌川国輝(二代)画 明治6年(1873) 3枚続 チ05 4103
富岡製糸場は明治5年(1872)群馬県富岡町に建設された官営模範工場。大隈は伊藤博文や渋沢栄一らとともに建設に尽力した。これはその開設当時の操業風景。旧藩士族の子女から選ばれたものが、フランス人女教師から操業技術を学んだ。
鉄道施設ニ関スル内外人意見書
明治2年(1869)6月−3年(1870)7月 1冊 イ14-2816
鉄道敷設を不要不急のこととし、英国での外債募集に反対する声の高まる中、大隈に寄せられた計画支持の意見書。このうち「鉄道憶測」は、前島密に明治鉄道建設費と営業収支の見積もりを試算させたもの。
東京汐留鉄道館蒸気車待合之図
歌川広重(三代)画 明治6年(1873)3月 3枚続 文庫10 08405
「汽笛一声新橋を…」と唱歌にうたわれた新橋(旧称汐留)ステイションの図。新橋−横浜間の運賃は、米1升が3銭7厘5毛の時代に、上等1両2朱(1円12銭5厘)、中等3分(75銭)、下等1分2朱(37銭5厘)という高額であった。それでももの珍しさと便利さで、明治5年末までに約50万の人が利用、17万円の収益をあげたという。
明治六年太陽暦
北畠茂兵衛 1冊 ニ05 2426 01
明治5年11月9日、政府は突如、改暦の詔書を発表、来る12月3日を明治6年(1873)1月1日とすること、1日24時間の定時制に換えることを布達した。太陽暦による暦の刊行はこれに間に合わず、混乱を招いた。
地租改正法草案
明治6年(1873)5月 1冊 イ14-A2060
地租改正法は、明治6年4月−5月にかけて開かれた大蔵省地方官会同で審議され、7月に公布された。これは地方官会同に提出された草案であり、大隈は大蔵省事務職総裁としてこの会議を指揮して成立させた。
征韓論之図
歌川芳虎画 明治10年(1877)9月 3枚続 チ05 4188
朝鮮の日本からの国書拒否を契機に、不平士族対策として西郷・板垣らが征韓を提議、米欧回覧の旅から帰り、内治優先を主張する岩倉・大久保・木戸らは強硬にこれに反対し、政府はまっ二つに分裂した。
西南事件征討費請求電報
明治10年(1877) 1枚 イ14-A272
政府軍が大蔵卿大隈にあてた軍費請求の電報。戦線の拡大につれ、大隈のもとには軍や関係各省からの軍費請求が相次いだ。大隈は第十五銀行からの1,500万円の借金で急場をしのぐが、さらに新紙幣の増発を余儀なくされた。
江藤新平捕縛之図
東京日々新聞第656号 蕙斎芳幾画 明治7年(1874) 1枚 チ05 04401
一時は佐賀城を奪った反乱軍も、大久保の率いる政府軍に鎮圧された。江藤は鹿児島へと逃亡、さらに高知へ逃れたが捕えられ、斬首梟首となった。有罪410名、戦死173名。政府軍に徴募された士族隊は4,300余名を数えた。
通貨ノ制度ヲ改メン事ヲ請フノ議
参議大隈重信 明治13年(1880)5月 イ14-A17
不換紙幣を整理するため、外債を募集し正貨通用制を確立することを提言したもの。しかし外債に対する閣内外からの強い反対があり、この提案は実現に至らなかった。この後、大隈の考えは「財政更革の議」に推移してゆく。
第一国立銀行之図
歌川国利画 明治19年(1886)10月 1枚 チ05 04353
明治5年の国立銀行条例以来、全国に153もの銀行が設立された。第一国立銀行は三井組小野組の資本をもとに、渋沢栄一が責任者となり、明治6年に開業して他行の模範となった。建物も5階建ての堂々たるものである。
Okuma's civil service career
Political change in Meiji 14 (1881)
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