この調査の過程で、私はこの角田柳作という人物に出会うことになりました。それは単にコロンビア大学のアジア図書館に貢献されたということのみでその名前に出会ったということではありません。アメリカ各地の日本語蔵書ができあがる過程を調べているうちに、直接的、あるいは間接的に角田柳作の名前に触れ、またその影響力を考えざるをえなかったという事情があります。
ですので、正確にはアメリカ各地の日本語図書館がどのような形でできあがってきたのかという歴史の中に角田柳作の当時の活動を位置づけていくという話になっていくかと思います。つまり、角田柳作は確かにこの時期、1920年代後半に日本語図書を収集しています。時には日本に帰って日本語図書を集めて、その本がコロンビア大学にいくわけです。では、角田柳作より前にこのようなことをした人物はいなかったのか、あるいは当時アメリカにおけるほかの大学は日本語図書をどのように集めていたのか。角田柳作のこの活動はそんなにオリジナルなことなのか。そういう、当時のアメリカ国内での日本学や日本語図書館の状況をある程度考えていかないと角田柳作の活動の意義や意味が見えないわけです。ですから、今日の話の中では、主に1920年代から戦前、戦中にかけてのアメリカにおける日本語図書、あるいは日本語蔵書の歴史の中で角田柳作の活動を位置づける、その中で角田柳作の意味、活動の価値をお伝えできればと考えています。
話の順序としては、戦前のアメリカ国内での日本語図書館についていくつかご紹介、あるいは考えた上で、その後で先ほどもお話ししたように角田柳作と彼の考えていた日本語図書館の構想について若干触れていきたいと思います。彼の考えた日本語図書館がどういう形でコロンビア大学に移されたか、それが戦争を迎える中でどのような位置に置かれることになったのかという話を順番に、駆け足となりますが話していきたいと思います。
まず、戦前の米国内の日本語図書館です。今出していますが、ここに挙げている大学は、現在日本語図書を10万冊以上所蔵している図書館です。数えただけでも15大学ありますが、この中で最大の日本語図書の蔵書を誇っている議会図書館は114万冊を超える蔵書を持っていますし、コロンビア大学でも27万冊を超える蔵書を持っています。ここに挙げてあるほかの大学も膨大な日本語蔵書を持っているわけですが、これは2006年のデータなのですが、では戦前はどうなのか、という話になってきます。
実際に戦前にかなりの規模の日本語図書を持っていた図書館はある程度限られています。例えばこれは1939年のデータなのですが、実際に先ほど挙げましたアメリカの議会図書館、コロンビア大学、イエール大学、またハワイ大学といった大学がそれにあたります。とはいえ、先ほど何十万冊という数が出てきましたが、39年段階では最大のアメリカの議会図書館でも、ここにありますようにせいぜい32000冊程度という状況にあったわけです。同時期のコロンビア大学で28000冊です。ですから、コロンビアに関して言えば、議会図書館を除けば戦前最大の日本語図書館になっていたことがわかります。それと同時にここにも挙げましたように、すでにイエール大学やハワイ大学でもかなりの日本語蔵書ができつつあったこともおわかりになろうかと思います。