これが12000冊の本を擁する日本情報センターで、日本文化会館(Japan Institute)という名前のものができます。これができあがるのが1938年です。この機関は、1930年代後半に活発に日本の文化や書物を海外に紹介していくことになります。つまり、この当時やはり海外での日本学を振興するためにかなり大きな活動をしていた国際文化振興会(KBS)の出先機関のような形で成立するわけです。この日本文化会館(Japan Institute)は年間の運営資金でも大体40万円という莫大な予算を使って運営されていきます。現在のニューヨークの日本文化会館に関する資料が、現在では国際交流基金図書室というところで保管されています。そこの資料の調査にもあたっているのですが、この時期としてはかなりの活動、つまり図書寄贈だけではなく、図書の購入支援、日本の図書を購入するための支援や、あるいは日本学を勉強したい学生のための奨学金を出したり、あるいは日本について誤った情報が流れていたらそれは違っているなどという訂正や抗議をしたり、様々な文化活動をこの時期に展開しています。
例えば日本文化会館の資料、昭和15年ですから1940年段階の活動記録から見てみますと、ニューヨークの日本文化会館の来訪者が2千何百人で、図書利用者でも700人、この機関が大学に寄贈した資料を除いた頒布資料、つまりこの機関自体が作って配布している資料だけでも5000点を超えます。日本関係の映画をたくさん上映するのですが、上映会でも2000回という形です。こういった講演の中には角田柳作などの講演も含まれていて、彼自身講演を行っていたこともうかがえます。
ただ、同時に残された文書からは、この機関が単に文化的な役割を担っていただけではなく、外務省の情報局の下で対米、対欧米の情報戦略の重要な部分であったことがうかがえます。つまり、アジア戦略政策に対して海外からなされていた非難、そこで起こってくる対立や摩擦に対して文化的な宣伝や交流で緩和していくという意味での文化政策を担っていたわけです。ですから、30年代後半になってくると、こうした日本の国際的な対外戦略の中に日本学振興や、あるいは日本語図書館作りという動きが組み込まれていくと言いますか、組み込まれないまでも影響を受けざるをえない状況に置かれていくことになります。ですから、角田柳作をはじめとした日米の間で活動している人たちの運動が微妙な、あやうい文脈の中に置かれていくことになっていくわけです。
皮肉なことに、アメリカ国内での日本学支援、あるいは日本語図書館への支援、あるいは図書寄贈や日本について基本情報を提供するような動きが加速化していくことを実質的に後押ししていたのは、ほかならない日米関係の悪化、あるいは緊張であったということになります。それに続く日米開戦が日本についての情報や日本語能力の役割、価値を飛躍的に高めることになったことは言うまでもありません。これはTextbook Victoryと書いてありますが、これは海軍における日本語学校の成功を伝えるワシントンポストの文章を持ってきました。つまり海軍や陸軍における日本語学校の設置、あるいは民政官養成学校もできてきますが、それまでとは比較にならないほどの日本語能力や日本語リテラシーの普及が起こってきます。
例えば、今日のプログラムにも名前が挙がっていますが、ドナルド・キーンさんやド・バリーさん、今年亡くなられたサイデンステッカーさんもそうですが、海軍日本語学校のご出身です。それだけではなくて、日本の政治、文学、教育領域をはじめとして、今日著明な人物が数多くこの時期に生み出されていることはご存知かと思います。