大隈重信関係資料

条約改正交渉と2度の組閣

ノルマントン号沈没
歌川国政(4世)画 明治19年(1886)11月 3枚続 チ05 04163

イギリス船ノルマントン号が和歌山県近海で難破し沈没。船長はじめ船員は脱出したが、日本人乗客25名、インド人水夫らが溺死した。裁判で船長が軽い刑だったことから、世論が沸騰、不平等条約改正へ拍車をかけた。

伊藤博文書簡 大隈重信宛 
明治22年(1889)7月20日 1巻 イ14-B7 02

伊藤は井上馨を外相として条約改正に取り組んだが奏功せず、バトンを大隈に譲った。「一昨年の困難」はそのことを言っている。だが、渦中の大隈に慎重にと告げるだけで、最後には反対に回った。

黒田清隆書簡 大隈重信宛
明治22年(1889)10月11日 1巻 イ14-B90 07

大隈の条約改正案をめぐり世論も割れたが内閣でも後藤逓相、松方蔵相らが反対した。また、伊藤枢密院議長も反対の意思表示として辞表を出すにいたり、黒田は苦境に立つが、なお大隈案をまとめる決意を記している。

条約改正日誌
明治21-22年 付・大隈外務大臣書簡案 加藤高明記 1冊 イ14-A951

大隈外相が条約改正にあたった明治21年11月から翌年10月18日の遭難の日までの経過を記したもの。筆者加藤高明は、外相秘書官で大隈を扶け改正案の策定に力を尽くした。加藤は、第二次大隈内閣のとき外相をつとめ、のち首相にもなる。

辞令 免本官(外務大臣)
内閣 明治22年(1889)12月24日 1枚 イ14-D212

負傷した大隈は山県内閣の成立を機に辞任、枢密顧問官に任ぜられた。条約改正交渉中止は、大隈の復帰をまたず閣議決定されてしまった。

憲法発布式之図
井上探景画 明治22年(1889)2月 チ05 03941

大日本帝国憲法発布式の錦絵。明治天皇は右手玉座にあり、中央に有栖川宮らの皇族、天皇に正対して黒田首相らが描かれている。

辞令 任内閣総理大臣兼外務大臣
明治31年(1898)6月30日 イ14-D221

大隈の改進党と板垣の自由党の協力のもと成立した憲政党内閣はわが国初の政党内閣であり、大隈がその首班となった。いわゆる隈板内閣(第1次大隈内閣)である。大隈が外相を兼任。板垣内相、松田蔵相、林逓相が自由党系であるのに対し、農相・司法相・文相を大石、大東、尾崎らの改進党系が占めた。

辞令 任内閣総理大臣兼内務大臣
大正3年(1914)4月16日 イ14-D225

シーメンス事件などを機に国民の政治不信が高まる中、政界の第一線を退いていた大隈が再登場し、第二次大隈内閣を組織することになった。

孫文書簡
大隈重信宛 大正3年(1914)5月11日 イ14-B269 04

辛亥革命の3年後、孫文は袁世凱の支配を非難し、大隈に中国革命軍への人道的援助を訴えた。具体的には、対中国不平等条約の改正などにわが国の助力を求めている。

大隈伯吹込レコード
大正4年(1915)3月2日 日本蓄音器商会 3枚 カ01 03764

「憲政に於ける与論の勢力」と題した大隈の演説を録音したもの。第12回総選挙で、選挙運動に数々のアイディアを取り入れたうちの一つ。「・・であるんである」の名調子で、聴く者に訴えかける雄弁である。

大正天皇御製詠老翁歌  
1軸 チ06 04702

大正天皇が詠んだ大隈を称える歌。<br>
山よりも高きよはひをかさぬれど<br>
わかきをしのぐ人ぞををしき<br>