「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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「角田柳作が語りかけるもの」(6)
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パネルディスカッション
ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授) ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授):まず申し上げなければいけないことですが、私は子どものときから大変な反戦主義者でした。戦争は非常に悪いものだと思っていましたから、軍にとられることは非常に嫌でした。特に自分が持っている鉄砲で人を殺すことはできないと信じていました。そんなことは私たちにありえないと。迷っているときに、日本語学校のことを聞きました。私はどうせ軍に入らなければならないでしょうから、人を殺すことではなくて、何か自分のため、あるいは世界のためになるような勉強をしたいと。それで海軍の日本語学校に志願したのです。それでうまく入れました。

当時、学校は大変小さくて、私の同級生は大体30名でした。私たちは2回生でした。1回生は10人くらいでした。その10人は皆日本で生活したことがある人ばかりでした。私の同級生たちには、宣教者の息子という人、あるいは貿易会社で父が日本にいたという人もいました。あとは秀才…自分で秀才と言うのはおかしいですが、大学で特別良い成績があって、特に外国語をいろいろ覚えたことがある人たちは日本語に向いているだろうと思っていました。日本語学校に入ったときに、いろいろなクラスに分かれました。一番できる人、一番できない人というふうに分かれていましたが、1番で出ても、最後で出ても、全然待遇は変わらなかったです。要するに、皆卒業して海軍少尉になりました。皆同じでした。大変秀才でも一番ダメな人でも同じでした。しかし、別のこともありました。私たちは自分の大学の代表者という身分でした。つまり、私はコロンビア大学だったので、コロンビア大学の人としてどこの大学には負けないつもりだ、などという子どもっぽい考え方がありました。ド・バリーさんもそうでした。私たちは一番良い成績だったので、やはり私たちの言ったとおりだと。

どうして私が日本語を好きだったかというと、確かに今朝申したとおり、それは角田先生と深い関係がありました。私は戦時中、戦争が終わったら自分は中国語と日本語両方をやろうと思いました。私の手本は英国のアーサー・ウェイリーで、彼は両方やりました。私も同じことをしようと思いました。しかし、コロンビア大学に戻ってからの中国文学の先生は中国人で、彼は大変秀才だったでしょうが、私は彼を人物として好きではなかったのです。しかし、それよりも私たちは中国の有名な小説である『紅楼夢』を読んでいましたが、私はそれが大嫌いでした。こういう嫌な小説を作った国民が嫌いだというバカな考え方でしたが、その代わり角田先生の授業はとても好きでした。

特に『徒然草』を読んで、その美しさに打たれました。日本語が全然わからない人に聞いてみてください。美しいものがあるかと。相手はわからないと言うでしょう。しかし、大変楽しい冒険旅行でした。例えば私たちは『好色五人女』を教室で全部読みましたが、それは西洋の長い歴史の中で1回しかないと思います。教室の中で外国人の学生たちが『好色五人女』です。ド・バリーさんはすばらしい翻訳を出しましたが。私たちの前には誰もいませんでした。私たちが初めてだ、となんとも言えないすばらしい気持ちだったものです。自分たちは誰も知らない国に入った、初めて日本に行ったポルトガル人と同じように、まだ誰も発見していない国を見ることができた、などというすばらしい気持ちでした。

しかし、同時に英文学の何を勉強していたかというと、実にくだらないことばかりでした。私たちは大事なことをやっているが、彼らは何をやっているかと。英文学はやりたくないと思いました。そういう気持ち、喜びがありました。私たちは、先ほど申しましたが、たった1年間で『源氏物語』、『枕草子』、『徒然草』、『方丈記』、『好色五人女』、『奥の細道』、『国性爺合戦』を読みました。大変な勉強でしたが、とてもすばらしかったです。それは角田先生に負うことが非常に大きいです。中国文学の先生がもっとましだったら、あるいは私は違う経歴があったかもしれません。私は第2のアーサー・ウェイリーになれないと諦めて、自分ができることをなるべくうまくやろうと思いました。

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