「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
HOME
あいさつ
開催報告
プログラム
フォトギャラリー
リンク
お問い合わせ
早稲田大学HPへ
「角田柳作が語りかけるもの」(23)
前のページに戻る次のページに進む
パネルディスカッション
内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):ほかに何かありますか。では荻野富士夫さん。
-
荻野富士夫(小樽商科大学教授):今の角田と戦争のところですが、私が見た限りのことで少し補足をさせていただきます。午前中和田先生のご報告の中で紐育新報という日系誌が紹介されていましたが、彼はあそこにたくさん、もちろん日本語でですが、彼自身が書いています。数十編にのぼるかと思います。彼は日米の間を戦前は3回くらい往復しますが、最後に帰ってきたのが1938年くらいだと思います。そのときに彼は朝鮮、満州のほうに彼は行っています。たぶん美術などを見るということもあったかと思いますが、視察旅行という形で行っています。その体験は読売新聞でも報道されていますが、彼自身は紐育新報に支那へ行ってきて、と10回くらい連載をしています。そこではかなり彼は戦争に対して、いわゆる皇軍の華々しい進撃に対して手放しで礼賛している部分が見えます。一方ではそういう形で、そこについては日中戦争が全面化したところで皇軍が進軍してくる侵略的なことに対して礼賛している一方で、ただこれがうまくいくのかという疑問も持っていたようですが。少なくとも彼が中国、満州などを視察したときには、そういう形の肯定的な見解を持っていたのは確かだと思います。彼のそういう中国旅行などをいわばコーディネートした1人が福島中学時代の教え子である外務官僚石井猪太郎という人物で、この人物によっていろいろ、普通の日本人では行けないところまで行っているのではないかと思います。ただ、舞い上がったのもたぶん一時の興奮であって、アメリカに戻ってからは少し冷静になったようで、それについて今度は沈静化します。むしろ日本の軍国主義に対して、先ほど内海さんが言われたような形での警戒心がだんだん強まってくるのが39年以降です。日米戦争が始まるとそこの部分…むしろ私などは帰国船で帰らないという1つの選択肢として、軍国主義の日本には帰りたくないという明確な意思があったのではないかと思っています。
-
内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):どうもありがとうございます。
-
鹿野政直(早稲田大学名誉教授):鹿野と申します。今の戦時中のお話ですが、それとは少し時期がずれますが、戦後のところで、アメリカではマッカーシズムが起こってきた時期に、角田がどんな気持ちで暮らしていたかについて一言だけ、私も材料はないのですが、申し上げたいと思います。それは、石垣綾子日記の1948年10月5日のところですが、角田についてこんな記事が出ていました。昼食をご馳走になると。コロンビア大学の東アジア図書館を訪問したときの記録です。角田氏も参加。彼は、アメリカは日本が東洋において行おうとしたことをそのまま真似ている。そっくりそのままだ。自分の国に帰っても自分の思うことが喋れない間は帰りたいと思わない、と申していたそうです。その辺からも、角田の姿勢の一端が窺えるのではないかと思っています。

それは荻野さんのご発言に関連して思いついたことですが、先ほど手を挙げたのはそれとは別に、甲斐さんのお話を伺っていて私の名前が突然飛び出して驚きました。そのことに関してですが、角田の最晩年についてキーン先生にお伺いしたいと思います。

前のページに戻る 010203040506070809101112131415161718192021222324252627 次のページに進む


プログラムへ戻る --- Pagetop