「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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「角田柳作が語りかけるもの」(10)
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パネルディスカッション
ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授) ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授):私が覚えているところでは、角田先生は何のノートも持っていなかったです。私たちが教室に入る前から先生はすでに黒板に必要なことを書いていました。そしてこのくらい本があったのですが、それを見ることはまずなかったです。万が一自分が知らないことがあったら参考にするという考えはあったでしょうが、しかし、私には先生がそれを開けて読んだという記憶はまったくありません。先生は大体、教室に入る前からすでに頭の中に入っていたという感じでした。ただ口で言うという作業だけでしたが、もうできていたという感じでした。そういうふうに思っていました。

ほかの先生の場合は、偉い先生でも毎年同じノートを朗読して、冗談も同じところで言うような先生もいますが、角田先生はそういう先生と全然違っていました。話しながらまた新しい考えが生まれたような感じもありました。つまり、はじめから決まった、暗記したような講義ではなかったです。話しながら、自然に別のことになりました。

しかし、もう1つの和田先生の話ですが、先生はものを書くことがあまり好きではなかったです。西鶴についての最初の研究本を角田先生が書かれました。それが明治何年か私は覚えていませんが、しかし本ができてから先生は恥ずかしくなって、なるべくその本を買って破りました。人に読んでもらいたくなかったのです。そういう気持ちもありました。角田先生は晩年までいろいろ研究していました。特にアメリカの歴史に関心があって、ベンジャミン・フランクリンが好きでした。いろいろ詳しく調べて読んで、しかし、私の知っている限り1行も書いていませんでした。もしベンジャミン・フランクリンの話をしたいと思ったら喜んで話しましたが、書くことはあまり好きではなかったです。ということで、弟子たち、特にド・バリーさんのような弟子がいなかったら、角田先生の遺産と言いましょうか、は知られなかったと思います。あれほどすばらしい先 生がいたということを人は知らなかったでしょう。それは、弟子の役目です。私たちは、人々に先生のことを忘れないようにさせました。

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