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1877年(明治10) |
1月28日 |
群馬県勢多郡津久田村1872番地に生まれる(父庄作、母ぎんの次男、長男保太郎) |
D77、K |
1882年(明治15) |
6月21日 |
6月21日 父庄作が48歳で死去 |
D77 |
1882年(明治16)頃 |
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南勢多郡津久田村立鳩杖小学校(渋川市立津久田小学校)入学 |
D77、K |
1890年(明治23) |
1月 |
角田伝平宅(富岡)に寄寓し転校(北甘楽第一小学校) |
F、I195、J119 |
4月 |
群馬県尋常中学校(群馬県立前橋高等学校)入学 |
D77 |
1893年(明治26) |
10月25日 |
群馬県尋常中学校中退 |
F |
10月27日 |
東京専門学校(早稲田大学)文学科入学 |
A |
1896年(明治29) |
7月29日 |
東京専門学校文学科卒業 |
A |
1897年(明治30) |
1月 |
国民新聞社入社 |
B128 |
5月4日 |
『井原西鶴』出版(民友社) |
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1899年(明治32) |
2月13日 |
翻訳書『社会之進化』出版(開拓社) |
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4月 |
人民新聞社退社 |
F |
5月 |
開拓社入社 |
F |
8月 |
真言宗京都高等中学林(種智院大学)教授 |
B128 |
9月1日 |
京都着任 |
F |
1900年(明治33) |
1月28日 |
角田やすと入籍 |
D77 |
2月3日 |
長男浩平誕生(翌年3月10日死去) |
D77-78 |
3月 |
真言宗の上田照遍、長谷寶秀に師事 |
B128 |
12月 |
文中園(京都女子大学)教授 |
C99 |
1901年(明治34) |
1月 |
同志社神学部聴講 |
B128 |
8月20日 |
次男健作誕生 |
D78 |
1902年(明治35) |
8月 |
真言宗京都高等中学林退職 |
B128 |
1903年(明治36) |
2月16日 |
長女ちづ誕生 |
D78 |
4月4日 |
福島県立福島中学校教諭心得(月俸55円) |
B128 |
1904年(明治37) |
8月10日 |
翻訳書『ヴント倫理学史』出版(金港堂書籍) |
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1905年(明治38) |
3月25日 |
次女しづ誕生(同年12月12日死去) |
D78 |
1906年(明治39) |
5月11日 |
三男力三誕生 |
D78 |
12月 |
文部省検定修身教員免許状下付 |
B128 |
1907年(明治40) |
6月8日 |
福島中学校教諭昇任 |
C101 |
1908年(明治41) |
1月13日 |
三女キミ誕生 |
D78 |
9月13日 |
皇太子、福島中学校行啓(角田の英語授業見学) |
B142 |
10月3日 |
宮城県立仙台第一中学校出向 |
B143 |
10月19日 |
宮城県立仙台第一中学校教諭発令(3日付) |
B144 |
1909年(明治42) |
4月30日 |
宮城県立仙台第一中学校教諭休職 |
B145 |
5月15日 |
横浜港出航 |
B151 |
5月24日 |
ホノルル港到着 |
B150 |
5月28日 |
本派本願寺ハワイ中学校長就任 |
C109 |
7月14日 |
「布哇中学校学科改正の要領」発表 |
B161 |
12月30日 |
四女富士子誕生 |
D79 |
1910年(明治43) |
4月 |
ハワイ中学校女子部設置(翌年高等女学校) |
C16 |
1911年(明治44) |
7月16日 |
ハワイ中学校第一回卒業式 |
B166 |
1912年(明治45) |
5月4日 |
一時帰国(病気にて) |
C111 |
8月7日 |
ハワイ中学校長辞職 |
C112 |
1913年(大正2) |
1月11日 |
横浜港出航 |
C112 |
1月21日 |
ホノルル港到着 |
C112 |
2月12日 |
四男良平誕生(同年2月19日死去) |
D79 |
2月 |
布哇日日新聞記者(11月辞職) |
C113 |
1914年(大正3) |
1月23日 |
“The Essence of Japanese Buddhism.”(ホノルルのThe Advertiser Pressで出版) |
C115 |
1915年(大正4) |
12月 |
本派本願寺ハワイ教団学務部長就任 |
C117 |
1916年(大正5) |
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この年家族がホノルルに渡航 |
B146 |
1917年(大正6) |
1月15日 |
『書斎、学校、社会』出版(布哇便利社出版部) |
C119 |
2月14日 |
学務部長辞任 |
C119 |
3月17日 |
編纂『日本語読本』、ハワイに到着 |
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3月21日 |
ホノルル港出航 |
C119 |
3月27日 |
サンフランシスコ港到着 |
C120 |
5月中旬 |
ニューヨーク到着 |
E |
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コロンビア大学、クラーク大学聴講 |
E |
1918年(大正7) |
5月29日 |
ニューヨーク出発 |
E |
6月4日 |
デンバー到着 |
E |
6月5日 |
コロラド日本人会書記長就任(月俸90ドル) |
E |
1919年(大正8) |
1月7日 |
(改組)山東日本人会書記長就任 |
E |
1月27日 |
山東日本人会書記長辞任 |
E |
1月29日 |
デンバー出発 |
E |
2月1日 |
ニューヨーク到着 |
E |
2月3日 |
ニューヨーク日本人会幹事就任 |
E |
1920年(大正9) |
3月 |
家族がサンフランシスコに到着 |
H |
1926年(大正15) |
10月 |
ニューヨーク日本人会書記長辞任 |
E |
1927年(昭和2) |
1月 |
The Japanese Culture Center(日米文化学会)創設準備のため帰国 |
D79 |
3月12日 |
早稲田大学で角田柳作帰国歓迎会 |
D79 |
1929年(昭和4) |
7月30日 |
コロンビア大学図書館にThe Japanese Culture Center設立 |
G |
1931年(昭和6) |
5月4日 |
コロンビア大学日本歴史講座講師就任 |
G |
6月30日 |
The Japanese Culture Centerをコロンビア大学に移管付置、Japanese CollectionのCuratorに就任 |
G |
1936年(昭和11) |
3月13日 |
妻やす死去(日本にて) |
D80 |
1941年(昭和16) |
6月17日 |
兄保太郎死去 |
D80 |
12月9日 |
7日(現地時間)の日本軍の真珠湾攻撃によって「敵性日本人」として逮捕(エリス島に抑留) |
H |
1942年(昭和17) |
3月24日 |
エリス島から仮釈放
コロンビア大学からの給与(週80ドル) |
H
H |
1944年(昭和19) |
1月 |
当時のコロンビア大学からの給与(週80ドル) |
H |
1945年(昭和20) |
11月15日 |
釈放許可 |
H |
1948年(昭和23) |
5月3日 |
コロンビア大学日本歴史特別講師就任 |
G |
1948年(昭和23) |
6月30日 |
コロンビア大学Curatorの職を退く |
G |
1953年(昭和28) |
6月30日 |
コロンビア大学特別講師退職 |
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1961年(昭和36) |
4月20日 |
コロンビア大学日本語講師就任 |
G |
1962年(昭和37) |
10月6日 |
コロンビア大学名誉博士号授与 |
G |
1963年(昭和38) |
7月18日 |
コロンビア大学日本語訪問講師就任 |
G |
1964年(昭和39) |
11月29日 |
ホノルルにて死去 |
G |
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(作成:内海孝) |
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[出典]
A 佐藤能丸「角田柳作と早稲田大学」(『早稲田大学史記要』第28卷、1996年)
B 内海孝「角田柳作のハワイ時代」(『早稲田大学史記要』第30巻、1998年)
C 内海孝「角田柳作のハワイ時代再論」(『早稲田大学史記要』第31号、1999年)
D 角田修『角田柳作』(赤城村教育委員会文化財関係資料集第7集、2005年)
E 内海孝「角田柳作のコロラド時代」(『東京外国語大学論集』第75号、2007年)
F 角田修家文書
G コロンビア大学文書資料
H アメリカ司法省文書
I 『前橋高校八十七年史』上巻、1964年
J 『群馬県北甘楽郡教育史』 1919年
K 出典に作成者が一部変更を加えた
*年譜の事項右に、正確を期すために出典を掲出し(数字はページ数)、未確認なところは記載しなかった。 |
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