角田柳作WEB展 日米の架け橋となった"Sensei"
 
開催にあたって Greetings”
角田柳作の生涯 Biographical Sketch
メッセージ Messages
年譜
角田柳作著作リスト
協力者
1903-1909 福島〜仙台 (Fukushima-Sendai)
明治36年 (1903) 4月、26歳の柳作は、福島県立福島中学校 (福島県立福島高等学校) の教員となった。英語と修身を担当し、野球部、文芸部などの顧問としても活躍する。しかし明治41年9月の皇太子学校訪問での学生対応をめぐって学校を去ることになる。
明治41年 (1908) 10月、柳作は福島中学校の学生不祥事の責任をとらされる形で、学生たちから慕われながら宮城県立仙台第一中学校 (宮城県立仙台第一高等学校) に転任した。5歳で父親を亡くして以来のつらい日々を過ごした。
 
In April 1903 (Meiji 36), at the age of 26, Ryūsaku became an instructor at Fukushima Middle School, Fukishima Prefecture (the present Fukushima High School). He taught English and ethics, and also served as faculty advisor for the baseball and literature clubs. However, in September 1908 (Meiji 41), on the occasion of the visit of the Crown Prince, he was involved in a conflict with the school, and left.
In October 1908 (Meiji 41), Ryūsaku took full responsibility for the scandal caused by a student on the school visit of the Crown Prince and the subsequent events. Although students requested that he not be removed from the school, he was reassigned to the Sendai First Middle School, Miyagi Prefecture. Since losing his father at the age of five, Ryūsaku's life was difficult.
 
 
 
 

角田柳作家族写真 明治41年(1908)頃
Ryūsaku's family, 1908

 
福島時代の家族写真。三女キミの生まれた頃のものであろう。裏に「角田柳作様 大将 角田ヤス様 中将」などと次男の健作 (6,7歳) が書いている。[角田修家文書 (群馬県立文書館寄託)]
 
 
 
 

福島中学教員時代
At Fukushima Middle School

 
福島中学時代は、日本での教員生活の中でもっとも充実したときであった。これはその同僚たちとの写真。上段右端で腕を組んでいる柳作はしばしばこのポーズで写真におさまることが多かった。[角田修家文書 (群馬県立文書館寄託)]
 
 
 
 

福島中学野球部 早大野球部員と共に 明治38年(1905)頃
Fukushima Middle School Baseball team with Waseda students, 1905

 
野球部長であった柳作が、母校早稲田大学の選手を招いて指導をうけたのであろう。中央のアンダーシャツ姿は橋戸信 (遊撃手)、その左隣は山脇正治 (捕手) か。いずれも明治38年 (1905) の野球部第1回渡米時のレギュラーである。撮影時期はその前後と思われ、柳作の野球部へ力の入れようがわかる。[角田昭氏蔵]
 
 
 
 

仙台第一中学校教員時代
Sendai First Middle School

 
仙台で教鞭をとったのは明治41年 (1908) 10月からわずか半年余りであった。写真が卒業時であるとすると、柳作が学校を離れる直前のものである。柳作は生徒と同じ服装だが、「学校一覧」には「職員登校ノ際ハ必ズ本校ノ制服制帽ヲ着用スベシ」との規定がある。[角田修家文書 (群馬県立文書館寄託)]
 
 
 
 

角田柳作訳「ヴント倫理学史」 金港堂書籍 明治37年(1904)
Wunt Rinrigakushi translated by Tsunoda Ryūsaku, 1904

 
柳作にとって福島時代は教育、研究両面ともに充実した時代であった。本書はドイツの心理学者ヴント (W.Wundt,1832-1920) の著書を翻訳したもの。緒言から京都時代から翻訳に着手していたことがわかる。[早稲田大学図書館蔵]