角田柳作WEB展 日米の架け橋となった"Sensei"
 
開催にあたって Greetings”
角田柳作の生涯 Biographical Sketch
メッセージ Messages
年譜
角田柳作著作リスト
協力者
1896-1903 東京〜京都 (Tokyo-Kyoto)
明治29年 (1896) 7月、東京専門学校を卒業すると、柳作はジャーナリズムの世界に身をおいた。民友社をはじめいくつかの出版社で編集の仕事をし、みずからも何冊かの本を刊行した。『井原西鶴』(1897)、『社会之進化』(1899) などである。
明治32年 (1899) 9月、柳作は真言宗京都高等中学林 (種智院(しゅちいん)大学) 教授として京都に赴任した。翌年、角田やすと結婚し、子供も生まれた。文中園 (京都女子大学) でも教壇に立ち、論文執筆や勉学に打ち込んだ。
 
After graduating from Tokyo Senmon Gakkō in July 1896 (Meiji 29), Ryūsaku became a journalist. He worked as an editor for several publishers including Min'yūsha, while at the same time producing books of his own, such as Ihara Saikaku (1897) and Shakai no shinka (1899).
In September 1899 (Meiji 32), Ryūsaku received an appointment as professor at Kyoto Shingon Upper Middle School (the present Shuchiin University). In the following year, Ryūsaku married Yasu and they had their first child. He also taught at Bunchūen (Kyoto Women's University) while continuing his own research and writing.
 
 
 
 

「社会之進化」ベンジャミン.キッド著
角田柳作訳 東京 開拓社 明治32年(1899)
Shakai no shinka translated by Tsunoda Ryūsaku, 1899

 
卒業後の翻訳作品の一つ。ただ、在学中のノートに翻訳の草稿があることから、そのころから興味を持ち、翻訳を進めていたのであろう。[角田修氏蔵]
 
 
 
 

「井原西鶴」角田柳作著
東京 民友社 明治30年5月
Ihara Saikaku by Tsunoda Ryūsaku

 
東京専門学校を卒業後、ジャーナリストとして活動していた柳作が、在学中に書いた原稿を、初めて自らの著作として世に送り出したもの。西鶴についての研究書としては、最初のものである。[角田修氏蔵]
 
 
 
 

「六合雑誌」(日本ゆにてりあん弘道会)
Rikugōzasshi, magazine connected with Ryūsaku

 
柳作は在京中も京都時代も、盛んに雑誌に論文や翻訳を寄稿している。西洋哲学、倫理学、日本の思想や風俗、宗教全般にかかわるものが多く、後にアメリカで日本思想史について語るに至るまでの、格闘する姿がある。[角田修氏蔵, 早稲田大学図書館蔵]
 
 
 
 

明治三五年度文中園第二回卒業式 明治36年(1903)3月26日
Graduate ceremony at Bunchūen, 1903

 
場所は京都東寺の講堂前。前列に高等科2名、裁縫専修科7名の卒業生、後列に講師陣が写る。柳作は後列右端で腕を組んでいる。中列左から4人目の女性が文中園 (京都女子大学) の主宰者、甲斐和里 (わり子) である。[角田修家文書 (群馬県立文書館寄託)]
 
 
 
 

角田柳作書色紙「長空不礙白雲飛」
Calligraphy by Ryūsaku

 
曹洞宗の祖である道元 (1200−1253) の『正法眼蔵』にある言葉。「長空は白雲の飛ぶをさまたげず」。一切の存在はすべて独立したものであり、たがいの存在を妨げない、との意。柳作晩年の仏教思想探究への広がりを感じさせるとともに、独立不羈の彼の生き方をも思わせる。[角田昭氏蔵]